中田英寿を上回る天才のリーガ挑戦>>22年前の今日、1998年9月13日。ワールドカップ初出場に沸いた日本サッカーから、…
中田英寿を上回る天才のリーガ挑戦>>
22年前の今日、1998年9月13日。ワールドカップ初出場に沸いた日本サッカーから、ひとりの若者がイタリアへ渡り、デビュー戦を迎えた。相手は並みいるスターを揃えたユベントス。ところがこの日本人は、そんな王者相手にいきなり大活躍を見せたのである。見る者に衝撃と興奮を与えた、中田英寿のセリエAデビュー戦を振り返る。
ペルージャはこのシーズンにセリエAに昇格したばかりだった。一方、対するユベントスは2連覇中のディフェンディングチャンピオン。率いるのは名将マルチェロ・リッピ。デル・ピエロとフィリッポ・インザーギがトップを組み、中盤にはジダン、エドガー・ダービッツ、ディディエ・デシャン...。
わざわざ中田を見に海を渡って来た日本人ファンには悪いが、ユベントスの一方的な試合になることはほぼ確実だと思われた。イタリアデビュー戦の相手は、あまりにも彼にとって分が悪すぎた、と。実際、地元サポーターと日本人サポーターの声援に後押しされながらも、前半はほぼユベントス一色だった。
ユベントスは、その直前のイタリアスーパーカップでラツィオに敗れていたこともあり、前半から果敢に攻めに出た。対するペルージャはなすすべもなく中盤より前に上がることができなかった。
ユベントスは序盤からペルージャゴールを脅かし、23分にFKを得ると、ダービッツが30mの地点から直接ゴール。不意を突かれたペルージャのGKアンジェロ・パゴットは何もできなかった。その後もユベントスは32分に、やはりこの日イタリアデビューの新加入イゴール・トゥドルが、デル・ピエロのCKをヘッドで押し込み、前半終了間際にはジャンルカ・ペッソットがミドルシュートを叩き込み、3-0でハーフタイムに入った。
しかし、3-0というスコアに安心したのか、後半ユベントスの集中力が切れはじめる。イタリア初挑戦の中田は、それを見逃さなかった。7分、中田はトップスピードでペナルティーボックスの中に切り込み、右足から勢いのあるシュートを放つ。ボールはイタリア代表GKアンジェロ・ペルッツィの脇を抜け、ゴールに突き刺さった。
なんと中田は、デビュー戦で初ゴールを決めたのである。
カテナチオの国イタリアでは、欧州のトップチームで活躍していたスター選手でも、すぐに活躍するのは難しい。実際私も、何人もの選手がイタリアの壁を破れず、セリエAを去るのを見てきた。このゴールは日本人が思う以上に値千金であったと思う。
また中田のすごいところは、それが単なるラッキーではないのをすぐに証明してみせたことだ。初ゴールから7分後、今度はゴール前の混戦からペルッツィがはじいたボールを、抑えのきいた見事なハーフボレーでゴールに決めた。スタジアムは総立ちになり、誰もが拍手を惜しまなかった。7番の背番号をつけ、後半7分に初ゴール、そのまた7分後にゴール。まるで運命に導かれたかのような「777」だった。
2点を返し勢いに乗った、ペルージャは夢を見た。しかし、中田に冷や水を浴びせられたユベントスは集中を取り戻し、後半20分にダニエル・フォンセカがゴール。終了間際にペルージャにPKが与えられたものの、試合は3-4で終わった。
ペルージャは負けたが、イタリアは中田を発見した。この中田の2ゴールは、間違いなく1998-99シーズンの最大の驚きのひとつだったろう。実際イタリアのサッカー誌グエリン・スポルティーヴォは、その年のサプライズ・プレーヤーに中田を選出している。
試合後、ユベントスのリッピ監督は、勝利に安堵しながらも驚きを隠せない様子でこう語っていた。
「強い選手だとは聞いていたが、まさかこれほど強いとは...」
中田がこの日放ったシュートは、単にユベントスのゴールを破っただけではなかった。彼は、イタリア人の日本人選手に対する認識の壁も破ったのである。日本人がユベントス相手に2ゴールをあげる。それはイタリア人にとって衝撃だった。
それまでイタリア人は日本のことを、金は持っているがサッカーでは後進国だと侮っていた。ピークを過ぎたスター選手を金で日本に集め、国外で日本人がプレーするのはスポンサーがらみ--。しかしこの日の中田のゴールを見た人々は思ったはずだ。
「日本のサッカーの何かが変わりつつある」
中田はイタリアでプレーした日本人のなかでは、まぎれもなくいちばんレベルの高い選手だった。ペルージャのあとに移籍したローマでは、(またもユベントスを抑え)歴史的スクデットにも貢献した。彼の前にチームの旗印フランチェスコ・トッティがいなければ、中田の活躍の幅はもっと大きかったはずである。
その後多くの日本人選手が彼につづいた。中村俊輔、長友佑都、本田圭佑、そして現在の吉田麻也、冨安健洋...。もう誰も彼らをマーケティングがらみでやってきたなどと、色眼鏡で見たりはしないだろう。
それもすべては1998年9月13日、中田が日本人選手のイメージを変えたところから始まったのである。