「巨人以外からの指名はお断りします」 近年はそう公言するドラフト候補はまったく見かけなくなった。 高校生のドラフト候補にオフレコで「どの球団に入りたいですか?」と聞いてみると、だいたい「12球団どこでもいいです」という答えが返ってくる。具体…

「巨人以外からの指名はお断りします」

 近年はそう公言するドラフト候補はまったく見かけなくなった。

 高校生のドラフト候補にオフレコで「どの球団に入りたいですか?」と聞いてみると、だいたい「12球団どこでもいいです」という答えが返ってくる。具体的な球団名が挙がったとしても、だいたいは日本ハムかソフトバンクである。

 今のドラフト候補にとっては「巨人ブランド」よりも、自分を使ってくれる球団、大きく育ててくれる球団に魅力を感じているということだろう。




ダイエーへの入団拒否から1年後、巨人に1位指名された元木大介

 
 これまでのドラフトの歴史は、大半が巨人を軸に展開されてきた。1978年にドラフト制度の盲点を突いた「空白の一日」から結果的に巨人入りを果たした江川卓など象徴的だが、国民的球団への入団を希望する選手は珍しくなかった。

 なかには元木大介のように、1989年にダイエーからドラフト1位指名を受けながら入団を拒否し、ハワイで1年間浪人した後に翌1990年に巨人入りした例まである。

 現役選手のなかで「巨人愛」を貫いた選手も少数ながら存在する。現在は西武に所属する内海哲也は、敦賀気比3年時に2000年ドラフトの目玉格だった。

 祖父・五十雄が巨人に在籍した元選手だった縁もあり、内海は巨人以外から指名があった場合は拒否して社会人の東京ガスに入社する姿勢を打ち出した。

 だが、巨人は1位で中央大の阿部慎之助、2位で立教大の上野裕平と、当時大学生・社会人に認められていた逆指名権を利用して2位までの指名が固まっていた。内海は3位以降で指名される予定だった。

 ところが、ドラフト当日にはオリックスが内海を1位指名する。高評価に内海の気持ちも揺れかけたというが、巨人が内海と高校でバッテリーを組む李景一を8位で指名したことで風向きが変わる。その後、オリックスとの入団交渉で内海は拒否姿勢を明確に打ち出し、当初の予定どおり東京ガスに入社した。

 3年後、プロ解禁となった内海は巨人を逆指名して自由獲得枠で入団を果たす。背番号は祖父と同じ26番だった。

 巨人ではエースとして活躍し、2011年には18勝5敗、防御率1.70とすばらしい成績を残した。この年を含め2度の最多勝を獲得し、通算133勝を挙げる大投手として君臨した。しかし、2018年にはFAで西武から巨人に移籍した炭谷銀仁朗の人的補償として、西武に移籍する。

 現在は広島で活躍する長野久義は、2度のドラフト指名拒否を経て巨人入りを果たしている。

 日本大では4年時に春夏連続で東都大学リーグ首位打者に輝き、2006年大学生・社会人ドラフトで日本ハムから4巡目指名を受ける。だが、巨人入団にこだわった長野は指名を拒否し、社会人のHondaに入社する。

 Hondaでも結果を残した長野は、プロ解禁となる2年目の2008年のドラフト会議でロッテから2位指名を受ける。しかし、やはり指名を拒否してHondaに残留。翌2009年2月には巨人の清武英利球団代表(当時)がHondaへ挨拶に訪れ、早くも長野のドラフト1位指名を公言する。

 あまりに早い公言と、25歳の外野手を1位指名する決断に、当時は批判の声も多かった。だが、長野は結果で雑音を封じてみせる。

 同年の都市対抗野球大会では打率.579をマークして首位打者賞を受賞し、チームを13年ぶり2度目の都市対抗制覇に導いた。

 ドラフト1位指名を受けて念願の巨人入りを果たすと、実績のあるベテラン・谷佳知とのレギュラー争いの末にポジションを奪取。1年目から打率.288、19本塁打と結果を残して、新人王を受賞した。翌2011年には首位打者を獲得するなど、長らく中心選手として活躍する。

 だが、長野も2018年オフにFA移籍した丸佳浩の人的補償で広島に移籍する。内海同様に人望の厚い功労者の流出に衝撃が走った。他球団からの指名を断ってまで入団にこだわった球団に、プロテクトから外される。プロである以上は仕方がないことだが、なんとも皮肉な結果になってしまった。

 
 昨季は、内海は一軍登板なし、長野は出場機会を減らしたものの、今季はともに復調気配を見せている。求められる場所で、必死に自分の存在をアピールしている。

 2010年ドラフト1位の澤村拓一は、早稲田大の大石達也(元・西武)、斎藤佑樹(日本ハム)と並ぶ目玉候補と言われた。しかし、ドラフト直前に巨人以外からの指名があっても入団しない旨をNPB球団サイドに通達している。さらに、MLB球団が澤村に身分照会している件が報道され、巨人以外の球団は一斉に澤村から手を引き、巨人の単独指名が実現した。

 入団時には「伝説の大投手・沢村栄治を超える投手に」という期待を込めて、沢村栄治の背番号14より1多い背番号15を与えられている。

 澤村は1年目から先発ローテーションに入り、2年連続で2ケタ勝利をマーク。2015年から2年間は守護神として73セーブを挙げている。入団時の壮大な期待には及ばないとはいえ、一定の成績は残した。それでも、澤村に対する風当たりは年々厳しさを増し、9月7日にロッテ・香月一也との電撃トレードが発表された。

 今のところ「巨人愛」を貫いた選手のなかで最高の成功者と言えば、エースの菅野智之だろう。菅野の野球人生は「原辰徳監督の甥」という枕詞との戦いだった。

 東海大相模高でも有望投手の仲間入りは果たしていたものの、佐藤由規(仙台育英→ヤクルト→楽天)、唐川侑己(成田→ロッテ)らドラフトで目玉クラスの投手に比べると注目度は落ちた。

 だが、東海大では首都大学リーグ通算37勝を挙げ、大エースに君臨。そして2011年のドラフト会議では、巨人以外は指名拒否の姿勢を打ち出して当日を迎えた。前年の澤村同様に菅野の巨人単独指名が濃厚と見られたドラフト当日、サプライズが起きた。巨人に続いて1位入札した日本ハムも菅野を指名したのである。

 1000人の観衆が集まった会場のグランドプリンスホテル新高輪は、けたたましい喧噪に包まれた。それは巨人入りを望む菅野の思いとは裏腹に、果敢に自由競争に挑んだ日本ハムを称える歓声に聞こえた。巨人との抽選の末に、交渉権は日本ハムに渡った。

 それでも、菅野の意志は揺るがなかった。日本ハムの指名を拒否した上で、1年間は大学施設で練習する「浪人」の道を選んだ。1年を棒に振る菅野の決断を、冷ややかに見る球界関係者やファンも少なくなかった。

 翌2012年のドラフト会議で巨人から2年連続の1位指名を受け、菅野は晴れて入団を果たす。1年間のブランクを心配する声は、シーズンが始まるとすぐに沈静化した。1年目に挙げた成績は13勝6敗、防御率3.12。新人王は16勝を挙げた小川泰弘(ヤクルト)が選ばれたものの、文句のつけようのない結果だった。

 それ以来、入団7年間で通算87勝47敗、防御率2.36と抜群の安定感を見せつけている。今季は9月7日現在、11試合に登板して9勝0敗、防御率1.57と圧巻の成績。押しも押されもせぬ、球界を代表する大投手に成長した。

 今や菅野のことを「原監督の甥」と呼ぶ者は誰もいない。入団時の経緯については賛否両論があるだろうが、これだけの実績を積み上げた菅野のプロ人生はあらためて称えられるべきだろう。

 さまざまな人間模様を映し出す「巨人志望」だった選手たち。今後はこのまま絶滅するのか、それとも----。今年のドラフト会議は、10月26日に開催される予定だ。