> コートに向かう口もとには、柔らかな笑みが浮かんでいた。 第1セットを落とすも、先にブレークし、優勢に進めていたセカン…
>
コートに向かう口もとには、柔らかな笑みが浮かんでいた。
第1セットを落とすも、先にブレークし、優勢に進めていたセカンドセット。過去にコート上で見せていた、自虐的な笑いではない。試合ができることへのうれしさが、自然とあふれてきたかのような笑顔だった。

半年ぶりに実戦のコートに立った大坂なおみ
その笑みの約1時間前......公式戦のコートに6カ月ぶりに立つ、彼女の表情と動きは硬かった。
今年の3月に中断されて以来、5ヶ月ぶりに再開したテニスツアーのウェスタン&サザンオープン。
初戦(1回戦免除のため2回戦)でカロリナ・ムホバ(チェコ)と対戦した大坂なおみは、打ち込まれる相手の強打に反応できず最初のポイントを失うと、続くポイントではダブルフォルト。相手にあっけなくブレークを許す、暗雲ただよう試合の立ち上がりだった。
「ものすごく緊張していた。思うように身体も動かず、自分への疑念だらけだった」
試合後に大坂は、恥じらうようにそう明かす。
ただ、そこまで緊張しながらも、そんな自分を冷静に客観視していた彼女もいたようだ。ファンの姿も声援もないスタジアムの静寂に奇妙さを覚えながらも、その状況を「自分と相手だけに集中しやすい」と前向きにとらえ、自身の心の声に耳を傾けた。
第1セットでは「相手に走らされている」との反省点から、終盤に向けて「もっと攻撃的にいこう」と言い聞かせる。
「残念ながら、第1セットではちょっと遅かった」と振り返るが、第2セットの開始早々、前向きな姿勢はブレークとして実った。相手のムホバは、硬軟織り交ぜネットプレーも器用にこなす万能型の選手。だが、そのトリッキーな相手の揺さぶりにも、大坂は足を動かし対応した。
かくして相手から奪い取った主導権を、彼女はより一層強く握りしめ、第3セットは出だしから疾走する。
鋭いリターンからラリー戦を支配し、最初のゲームをブレーク。続くゲームでは、2本のブレークポイントをバックの強打でしのぐと、第3ゲームも4度のデュースを繰り返した末、粘り強くブレークに成功。
この時点で、実質的な勝負は決まっただろう。最後はこの日12本目のサービスエースを叩き込んで、2時間33分の熱戦に終止符を打ち、約7カ月ぶりの勝利を掴み取った。
ツアーが完全停止していたこの期間、選手たちは誰もがそれぞれの課題や目標を掲げ、「中断前よりも強い自分でありたい」と自身と向き合ってきた。
大坂にとってのテーマは、ひとつは「精神的に成長すること」。
「シャイであることをやめ、自分を表現することを恐れない。そうすることにより、いろんな新しい発見や出会いがあった」と彼女は言った。
ソーシャルメディアで行なったトッププレーヤーたちへの"インタビュー"や、アメリカ全土で活性化した"ブラック・ライブズ・マター"に関わり、自らの考えを発信してきたことも、その一環。
大会前の会見で「人間的に成長できたと思う」と明言した大坂は、試合後には「こんなふうに試合を通じて集中し、ネガティブな感情に飲まれることなくプレーできたのは、すごく久しぶり」だとも振り返った。
>
もうひとつ、大坂が試合を戦い終えて感じた自らの成長は、フィジカルやコート上での動きにあったという。
大坂はこの6月に、ストレングス&コンディショニングコーチの中村豊氏を新たにチームに招いている。中村はマリア・シャラポワのパーソナルトレーナーを約7年に渡って務めた、この道の第一人者。その中村とともに大坂は、主に「機動性やストレッチなど、身体の動かし方」を集中的に鍛えてきたと言った。
自らもプロテニスプレーヤーを目指していた中村は、フィジカル強化とコート上での動きを連動させることに長けている。その練習の成果を大坂は、初戦では「走りながら身体を伸ばし、バックサイドの高い位置のボールを打ち返す時に実感できた」と明言した。攻撃的姿勢を貫きながらもミスが少なかった第2セット以降のプレーは、それらトレーニングが生きた証左だろう。
ツアーが再開されたとはいえ、試合は無観客で行なわれ、線審すらいないなど、スタジアムの景色は従来のそれと大きく異なる。
テニスの大会では恒例となった、サインボールの客席への打ち込みや、コートサイドに鈴なりになるファンへのサインもない。うれしい勝利を手にしたとはいえ、試合後の大坂も淡々とベンチに戻ると、マスクを取り出し、慣れた手つきで装着するのみだ。
ただ、その黒いマスクには、歯を見せ口角を上げる満面の笑みのイラストが描かれている。
自分らしくいることを恐れず、この舞台に再び戻ってきたことを心から楽しみながら、大坂なおみは笑顔でツアーの再スタートを切った。