甲子園で球児たちに聞いた「白いスパイクの効果」とは?>> 8月17日、甲子園交流試合で智辯和歌山に勝利し喜ぶ尽誠学園の選…
甲子園で球児たちに聞いた「白いスパイクの効果」とは?>>

8月17日、甲子園交流試合で智辯和歌山に勝利し喜ぶ尽誠学園の選手たち
「うどん県」香川県の西南部にある善通寺市。ここにはふたつの名物がある。まず、市名の由来でもあり、空海創建・弘法大師三大霊場のひとつ「善通寺」。もうひとつは、尽誠学園高校。近年ではNBAでプレーする渡邊雄太を輩出し、野球界には伊良部秀輝さん(元MLBニューヨーク・ヤンキースなど)、谷佳知さん(元巨人・オリックス)、田中浩康(元ヤクルト・横浜DeNA・現DeNA二軍守備走塁コーチ)など多くのプロ野球選手を送り込んできた名門校である。
しかし、現在の尽誠学園野球部に関しては「かつての」が付いて回る。夏は1989、92年に甲子園ベスト4入り。センバツでも2001、02年と2年連続ベスト8入りを果たすも、近年は16年夏の甲子園初戦で作新学院・今井達也(現・埼玉西武)に5安打完封負け。振り返れば、甲子園勝利はベスト8入りした02年夏以来なし。伊良部さん寄贈のスコアボードをはじめ、数々のプロ野球選手からの寄贈品に囲まれたグラウンドも最近はどこか寂しげだった。
そんな状況を打破するように昨秋は香川県大会優勝・四国大会準優勝を果たし、18年ぶりのセンバツ出場の切符を手にした尽誠学園。冬場のロングティーなどの練習で飛距離を伸ばした打線に加え、守備は父も同校野球部OBの遊撃手・仲村光陽(3年)を中心に堅守を誇った。だが、「甲子園で校歌を歌い、ベスト4以上で新たな歴史を創る」を旗印にした矢先、待っていたのが「コロナ禍」であった。
センバツ中止。そして夏の甲子園中止。仲村と二遊間コンビを組む主将・菊地柚(ゆず)いわく「どん底まで落ちた」。しかし、西村太監督はそんな中にあっても次なる舞台に向かう準備を進めていた。
「自分にはチーム、選手を育てると同時に指導者を育てる役割もあると思っています。なので、まだ20代前半の津田(空知)コーチ、岡尾(拓海)コーチと僕とをつなぐ指導者の存在は以前から必要だと思っていました」(西村監督)
父・良孝さんは04年アテネ五輪女子バレーボール日本代表コーチで、自らも大学卒業後約15年にわたって尽誠学園コーチを務め「参謀」の重要性を誰よりも知る西村監督。
18年2月、当時39歳だった西村監督の前に、ひとりの監督が現れた。尽誠学園グラウンドで行なわれた中学・高校連携の野球教室での出会いだった。西村監督はその人物の丁寧かつ明快な指導に目を見張った。自らが描くコーチングの理想像だった。
その監督とは、当時、34歳にして隣接する丸亀市にある私学・香川県藤井で指揮官を務めていた青山剛氏。大学から母校での指導者を志し、14年4月、監督に就任。15年春には同校初の県ベスト8、さらに16年秋は県ベスト4入り。選手のクオリティーを引き上げる指導能力を発揮していた。
その後、青山氏は香川県藤井の監督を退いて19年4月からは系列校・藤井学園寒川のバレーボール部コーチに就任。そんな青山氏を、西村監督がそのままにしておくはずはなかった。青山氏は20年4月、異例ともいえる尽誠学園への転職が決定。早速、バッテリー担当コーチとして手腕を振るうことになったのだ。
「外出自粛期間中もずっと尽誠学園の投手映像を見ていました。そこで気付いたことを自粛期間明けから教えるようにしたんです」(青山コーチ)
中でも力を入れたのは、昨秋エースナンバーを背負いながら、四国大会では球速も130キロ前半と、本来の実力を出し切れなかった左腕・村上侑希斗(3年)の修正だった。まずは四国大会を通じマウンドに適応できず、決勝戦の明徳義塾戦では終盤スタミナ切れを起こした一因になっていたインステップの修正に着手した。

村上侑希斗(写真左)を指導する青山剛コーチ
すると、ストレートのアベレージは5キロ増し、最速140キロに。ホームベース上で伸びる球質も手に入れた。
もう1つはグラウンド上で投手陣をけん引できる捕手の育成。幸いなことにここには適任者が控えていた。「4年前の夏に尽誠学園が甲子園に出場した時は、僕、高松商ファンで。正直『なんで関西のチームが香川県代表やねん』と思っていました」と笑う高松市出身の橘孝祐(3年)である。
「一度は高松商の練習会に参加したんですが、『なんか違う。もっと厳しい環境で野球をしたい』と思った」という橘は尽誠学園での寮生活を選択。168センチの小兵ながら正捕手の座をつかんだガッツマンは、学校では特進クラスで、国公立大を志望している。そんな彼の頭脳に着目した青山コーチは、香川県藤井で躍進につなげた「配球の論理」を橘に教え込んでいった。
「練習試合でも試合後に映像を見ながら1球ずつリードの方法を話してきました。最初は的外れな回答もありましたが、香川県独自大会までにはほぼ僕の思っていることと同じことを言ってくるようになった。村上をはじめ、投手陣の成長も橘の成長あってこそです」(青山コーチ)
こうして、近年欠けていた「冷静な自己分析」と「相手の洞察」がチームに備わった。独自大会でも「この夏は全て任せていた」と指揮官も全幅の信頼を置く橘のリードで見事優勝。準決勝まで4試合連続コールド勝ち。5試合47得点・チーム打率.353。チーム防御率0.97。まさに「ぶっちぎりで優勝する」(菊地)の公言どおりだった。
3日後の8月17日「甲子園交流試合」の相手は智辯和歌山。この1試合にかける尽誠学園の意気込みは並々ならぬものがあった。
和歌山県・南部リトルシニア出身の村上が「智辯和歌山には中学時代に対戦した選手もいる。性格もある程度わかっています」と不敵な笑みを浮かべれば、橘は青山コーチを交えて智辯和歌山の3試合分の映像を8時間にわたって徹底研究。結果、攻撃では「どの投手も外角中心の配球なので踏み込んで打っていく」という対策を立てた。
また、プロ注目の1番打者・細川凌平(3年)はじめ、強打線封じにもぬかりはなかった。実は、村上は夏を前に智辯和歌山封じの秘策・スクリューを習得していたのである。
「あまり手首をひねったボールが投げられないので、落ちるボールを考えてきました。そこで青山コーチからアドバイスももらって外角から沈むスクリューをマスターしたんです。県大会準決勝から投げ始めたんですが、手ごたえも得られたので、甲子園でも使えると思いました」(村上)
そして最後の仕上げは西村監督。「県大会と甲子園交流試合は違う大会。昨秋の四国大会に入るイメージを大切にした」と、1番には独自大会では9番だった菊地を起用。独自大会では3打席3三振も常にベンチを盛り上げてきた川﨑風汰(3年)も「秋は彼で勝ってきたし、打撃の状態も上がってきた」と7番スタメンに抜擢した。
さらに、独自大会では登板のなかった谷口颯太(2年)を、智辯和歌山の右の大砲・徳丸天晴(2年)封じの切り札としてセットアッパーに加えた。
全ての準備は整った。
村上は初回こそ1点を失うも、以後は、内角を攻めながらスクリューなどの変化球を使っていく橘のリードに導かれ、7回6安打6奪三振1失点。打線は「データがあったので信じて踏み込んで打てた」という仲村の適時打で追い付くと、2回裏は一死満塁から「9番から1番に上がったことで思い切ってバットが振れるようになった」と、菊地の走者一掃の二塁打で勝ち越した。
その後も「相手の(最速152キロ右腕の)小林(樹斗・3年)が出てくるまでにできるだけ点を取る」とのプランどおり5回までに8得点。そして予定どおり谷口が8回。仲村が9回を締め、尽誠学園が8対1で智辯和歌山に勝利した。「最終大号令」として6月に誓った「香川県独自大会をぶっちぎりで勝ち、甲子園で圧勝して校歌を歌う」ことを達成した。
「完璧でした」と、スタンドで控え選手たちと共に拍手を送った青山コーチが会心の笑みを見せると、選手たちからは「本当に楽しかった」と甲子園の感想が。さらに例外なく彼らはこう言った。
「もっと試合がしたかったです」
そんな彼らを見ながら、西村監督はしみじみと話し始めた。
「各選手が自分たちの役割を理解してくれた。ここがこのチームの強み。彼らが令和・尽誠学園の基盤を作ってくれたと思います。でも、僕は最後に選手たちにこう言います。『最高のチームだった。でも、僕はこのチームを超えるチームを作っていくよ』って」
「かつての」を外し、尽誠学園が再び名門へとのし上がる道のりはもう始まっている。