「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第11回 毒島章一・前編 (第1回から読む>>) 平成の時代にあっても、どこかセピ…

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第11回 毒島章一・前編 (第1回から読む>>)

 平成の時代にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。すでに時代は令和に変わり、昭和は遠い昔となりつつある。しかし、そんな今だからこそ、当時の個性あふれる選手たちを記憶にとどめておきたい。

「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズの11人目は、通算1977安打を放ち"ミスターフライヤーズ"と呼ばれた毒島章一(ぶすじま しょういち)さん。こわもての選手ぞろいで恐れられた当時の東映にあって、高卒1年目からいきなり活躍した経緯が飄々(ひょうひょう)と語られた。

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 毒島章一さんに会いに行ったのは2012年5月。最初のきっかけは、野球好きで知られた落語家、立川談志師匠に取材したときのことだ。昭和プロ野球の思い出を尋ねていくと選手との交流も語られたのだが、親しく付き合った選手として毒島さんの名前が出てきて興味を持った。

 とりわけ印象に残ったのは、毒島さんがプレーした東映フライヤーズ(現・日本ハム)の"伝説"だ。ある日、球団の合宿所=無私寮に泥棒が侵入したところ、選手たちは怯(ひる)まずに捕まえ、よってたかって懲らしめた。泥棒は「お願いですから、警察へ連れてってください!」と叫んで懇願したらしく、それぐらい、東映といえば怖い面々ばかりだった──。



1960年の東映キャンプで左から、毒島、ラドラ、西園寺昭夫、張本勲、山本八郎(写真=共同通信)

 1954年から61年まで、東京・世田谷区の駒澤野球場を本拠地とした東映は、荒っぽいチームゆえに[駒沢の暴れん坊]と称された。当時は大田区鵜の木(うのき)に住み、球場が近くてよく観戦していた談志師匠によれば、試合中の暴力行為で出場停止処分となり「ケンカ八」と呼ばれた山本八郎をはじめ、張本勲、土橋正幸は特に恐ろしい存在だったという。

 そんななか、毒島さんは落語好きだったから談志師匠と接点があったそうだが、僕はてっきり、毒島さんも「暴れん坊」だと思い込んでいた。思い込みが払拭されたのは、東映ファンの作家、佐山一郎の一文に触れてからだ。『駒沢に猛者たちがいた。』と題されたコラムで光が当てられていた。

〈「駒澤神話」でとかく見過ごされがちなのが、福本豊(阪急)に次ぐ三塁打106本の記録を持つ毒島章一の存在だろう。左打ちの好打者は性格温厚で、血気盛んな異端児集団の人望を集めた。〉
 
 まったく、「暴れん坊」ではなかった。この記述だけで、毒島さんが入団6年目、23歳の若さで主将を務め、のちに[ミスターフライヤーズ]と呼ばれた由縁が感じ取れる。続いて、積み重ねた記録が紹介される。

〈現役を終わってみれば、実働18年、ベストナイン3回、2056試合に出場し、7148打数、1977安打、122本塁打、688打点、平均打率2割7分7厘。「名球会」入の条件を満たす2千本安打までは、あと23本。オールスター戦にも昭和31年以来18試合に出場し、21打数8安打、2本塁打の打率3割8分1厘。〉

 文中の〈あと23本〉が、2012年5月、もうひとつのきっかけになった。というのも、同年4月28日に日本ハムの稲葉篤紀、5月4日にはヤクルトの宮本慎也と、通算2000本安打の記録達成が相次いだ。その一方、ソフトバンクの小久保裕紀は1999安打まで打った後、腰の故障のため5月25日に登録を抹消されたが、いずれ復帰して達成するのは間違いない。

 文献資料によれば、毒島さんが〈あと23本〉で断念した要因は右肘の故障だった。ケガなら仕方なかったのか、と思えるが、他の文献によると、じつは右肘は快方に向かっていたらしい。しかし、毒島さんは当時の田宮謙次郎監督から再三コーチ就任を要請され、同監督からの「2000本安打は達成したも同然」という声もあって現役を引退したようなのだ。

 今では、そんな処遇はありえない。小久保のように故障したところで治して挑むし、球団も監督も記録達成を後押しする。どんな大ケガでも「残り1本だから達成したも同然」などと言える人は存在しない。が、毒島さんが現役を生きた時代は違った......。果たして、通算1977安打の真相はどうだったのか。そして、それだけの数字はいかにして積み上げられたのか。

 小久保が登録抹消となってから6日後、JRと西武線が乗り入れる国分寺駅の改札で毒島さんと待ち合わせた。七三に分けられた髪に縁の細い眼鏡をかけた風貌、シックなグレーの縞のシャツにジャケットを左腕で抱え持つ毒島さんの容姿は、紳士そのものだった。白いものが交じり毛筆のように太い眉のほかに、76歳という高齢が感じられる要素もない。

 駅ビルの喫茶店に入り、あらためて挨拶を交わそうとすると、毒島さんは「ごめんなさいっ。名刺ないもんで」と声を張った。野球人の取材で名刺交換は滅多にないので、力を入れて謝る姿に驚く。引退後は太平洋、クラウン、西武でスカウトを務め、名刺が不可欠な世界に長くいたからだろうか。想像していた以上に低姿勢、柔らかい物腰だった。


取材当時の毒島さん。

「面白そう」だからプロ入りしたと言う

 僕は談志師匠の取材記事を差し出しつつ、東映に興味を持った経緯を伝えた。「駒沢の暴れん坊」と言われた時代、チームの雰囲気はどうだったのか。

「暴れん坊といっても、そうでもなかったんですよ。山本八郎だって普段は涙もろい、好青年です。ただ、やんちゃなのはやんちゃでしたけどね。昔はみんなそうですから、どっちかと言えば。ふふっ。そんな、『紳士たれ』なんて言ってらんないですから」

 不意に巨人軍創立時のモットーが引き合いに出され、シニカルな笑いが浮かぶ。表情も口調も真面目で、〈性格温厚〉だとしても、きっとただそれだけではない。何しろ落語界の異端にして正統、「天才」とも呼ばれた人物と対等に話していた野球人なのだ。やはり、東映時代よりも先に原点を知りたくなる。

 1936年、群馬の桐生市に生まれた毒島さんは、名門の桐生高で1年夏に甲子園出場。監督の稲川東一郎は、それまで同校になかった野球部を自ら発足させた情熱の指導者だったそうだ。

 この稲川監督初期の教え子に多田由雄という部員がいた。多田は早稲田大に進学後は演劇部に所属し、榎本健一率いるエノケン一座で活躍したあと、桐生に戻って中学教師となる。資料によれば、右打ちだった中学時代の毒島さんを、当時は珍しかった右投げ左打ちに転向させたのが多田だという。

「多田先生が野球部の監督になったときです。あの当時、子どもは右バッターばっかりですよ。そこに左バッターが立つとね、相手ピッチャー、ストライク入んないんですよ、全然。そうすると、その先生はちょっとユニークでしたから、『今日はバッター全部、左に立て』って。フォアボールですよ、みんな。ふっふっふ」

 俊足を生かそうとしたのでもなく、チームとしての作戦が先にあった。それでも毒島さん自身は左で打つことに面白みを感じて、自然に左打ちになった。独特な指導者の"先見の明"かと思いきや、あくまで結果的に転向が成功したようだ。

「ただ、多田先生は普通の中学の監督と違って、プロでやるようなことも教えてたんです。たとえば、外野フライ。わたしはピッチャーと外野やってましたから、フライのとき、『ボールを見ずに走れ』って教わった。『早くボールの下に行って、振り向いたらここへ来るから』って。毎日その練習やったら捕れて、先生に「それだー!」って言われたらもう、感激ですわ」

 多田監督はそのほか、投手の制球力を上げるために碁石を使い、投球時にストライクは白、ボールは黒として紙に置き、「白が多くなったらいいよ」と教えたという。高度で合理的な練習を実践したおかげで、才能が引き出されたのかもしれない。

「うーん。どうなんでしょうね。多田先生に引き出されたとすれば、演劇のほうだと思います。わたしは小さい頃から引っ込み思案でしたけど、学芸会みたいな、先生が作った劇に出ることになって、舞台でしゃべるようになった。

 そしたら、それまで人前でしゃべったことなかったのに、度胸がついたっていうんですかね。そんなことで自然に野球のほうも面白くなっていって。高校に先輩がいたもんだから、『おまえ来い』って言われて」

 甲子園出場は一度の毒島さんだが、3年夏にはエースとなり、対前橋商戦でノーヒットノーランを達成している。同時に右肘を痛めたものの、立教大進学の話が持ち上がった。一方、高校の先輩が所属する地元群馬の社会人チーム、富士重工からも誘いを受けた。

 しかし、最終的には稲川監督の知人と、東映の前身=東急の関係者とのつながりでプロ入りへ向かう。毒島さん以前、桐生高からは10名以上がプロに入っていたなか、内野手の斎藤宏、外野手の常見昇(泰生)と、東急にも先輩がいた。

「監督に『東急の代表が来るから会ってみるか』って。それでいっぺん会って、話しているうちに、ああ、面白そうだな、と思ってね」

 あっさりした物言いだった。名門校ゆえなのか、度胸がついたからなのか、18歳にしてプロの世界を「面白そう」と思えたというのは、それだけ意識が高かった証(あかし)だろうか。

「高校で野球やってて、大学とか社会人とか、上の段階でやるって意識が全然なかった時代ですよ。まして、プロでやれるなんて、これっぽちも思ってない。ただ、『そんなにおまえを買ってくれるんだったら、4年間ぐらい遊ぶんだったらいいじゃねえか』って親父に言われてね。そういう頭でいたから『面白そう』であって、目的が野球じゃなかった。意識は低かったですよ」

 1954年、東急が球団経営から手を引いて東映が経営に乗り出し、駒澤野球場が本拠地になると同時に毒島さんのプロ野球人生が始まった。当時の井野川利春監督から「ピッチャーか? 野手か?」と問われ、右肘の故障経験を踏まえて外野手に転向した。高くない意識でプロに入って最初の春季キャンプ。相当のレベルの差を感じたのではないか。

「あんまり感じてないんです、それは。相当、図々しかったんですよ。練習で先輩のバッティング見てると、飛ばないんです、あんまり。プロってこんなもんかなあ。まあ、東急のときの4番の大下弘さんが抜けちゃったあとで、年寄りが多かったから。なんだ、大したことねえな、こんな程度しか打てねえのかと思って。そんな感じでした」

 思ってはいても、その場では絶対に口には出せない内容。それが淡々と話されるのが可笑しい。ふと、談志師匠の毒舌が思い出される。

「ただ、ピッチャーで米川泰夫さんっていうエースがいて、なんて速いんだろうと思って。えげつない球ばっかりで、体でかいし、すごいなあと思ったけど、野手はあんまりそう思わなかったから。ふふっ」

 もはや、聞くほどに痛快かつ爽快な気分になる。それにしても「大したことない」と思ったとおりに即戦力となったのがすごい。記録を見ると、プロ1年目は開幕して5試合目、早くもスタメン7番で出場している。

「それはね、高校の先輩の斎藤さんが肩を壊しちゃって、サードがいなくなったから。井野川さんにね、『おまえ、内野やったことあるか?』って聞かれて、『ファーストをいっぺんやりました』っつったら、『じゃあ、おまえサードやれ』って言われて。外野手なのに。

 そんな無茶な話ねえだろって思ったけど、やれって言われたらしょうがない。何日か練習したですよ。したけど、できるわけないですよ。エラーばっかりです。で、『おまえもうダメだから外野やれ』って言われてね。肩は強かったですから、外野から面白いようにホームへ、ノーバンでもほうれましたからね。結構、楽しんでたんですよ」

 聞いて一瞬、ハッとした。「楽しむ」という言葉は今でこそ普通に選手が使っているが、プレーに関して、この年代の方から「楽しむ」と聞いたためしはない。それはともかく本職の外野手としてのデビューは4月23日、川崎球場での毎日(現・ロッテ)戦。いきなり4番を打っていて、その後もスタメン4番が40試合以上ある。

「ええ、ええ。だからねえ、意外と無神経だったのか、図太かったのか、向こう見ずだったのか。でもそのデビューのとき、わたしね、4打席立って、フォアボールが2つあって、ヒットが1本、二塁打が1本かな。出たら4回全部、殺されたんですよ。キャッチャーの牽制で。ルイスっていう外国人で、肩が強くて、こうやって投げるんでわかんないんです」

 右腕が下から軽く振り上げられた。僕は内心、その腕の振り以上に、外国人捕手がいたことに反応したが、話は続いた。

「一塁牽制で殺されたあとは二塁牽制で殺されて、盗塁で殺されて、エンドラン失敗で殺されて。4回出て4回とも殺されました。苦いデビューでした。それはもう、打ったことよりアウトになった印象のほうが強いです。ただ、相手の監督、別当薫さんにね、『あれは足が速いからいい選手だけどな』って言われたですよ。わりあい、足は速かったですから」

(後編につづく)