当事者が振り返る40年前の「大誤審」 前編中編:大誤審の前にあった知られざる死闘>> その映像を初めて目にした時は、驚きを通り越して、思わず笑ってしまった。 某動画サイトにアップされていたのは、1980年夏の高校野球・埼玉大会決勝戦の試…

当事者が振り返る40年前の「大誤審」 前編

中編:大誤審の前にあった知られざる死闘>>

 その映像を初めて目にした時は、驚きを通り越して、思わず笑ってしまった。

 某動画サイトにアップされていたのは、1980年夏の高校野球・埼玉大会決勝戦の試合映像である。見出しの「史上最悪の大誤審」という強烈なフレーズにひかれてクリックした私は、すっかり引き込まれていった。

 それは「誤審」から始まった。ランナーが二盗を試み、キャッチャーが二塁に送球する。だが、ショートは送球を弾き、落球したままランナーにタッチする。誰もがセーフと思った「空タッチ」だったが、二塁塁審は高々と右腕を掲げ、アウトコールをする。その傍らで、ショートがひっそりと地面に落ちたボールを拾い上げていた。

 一塁側ベンチから攻撃側の監督、選手が一斉にファウルゾーンに飛び出し、反発の声をあげる。監督の命を受けたキャプテンが二塁塁審のもとへ抗議に走る。審判4氏が協議するが、判定は覆らない。

 だが、再びアウトコールを受けてもランナーは二塁ベースから離れようとせず、キャプテンは何度も抗議に走る。騒然となったスタンドからは、判定に納得できないファンが何人もグラウンドに下りてくる。乱入したファンを監督が制し、首根っこをつかんで押し返す。私は高校野球でこんなシーンを初めて目にした。

 試合はそのまま再開されるのだが、大荒れに荒れた。イニング終了時には外野席から物が投げ込まれ、誤審を受けたチームはラフプレーを連発する。試合は誤審を受けたチームが2対7で敗れた。

 この顛末が収録された動画は、なぜか4年前に突如アップロードされ、現在930万以上の再生回数をあげている。

「えっ、930万! そんなに?」

 驚きの声をあげたのは、国府田等(こうだ・ひとし)さん。当時、抗議に走ったキャプテンである。今年10月に58歳になる、大手企業に勤めるサラリーマンだ。



40年前、川口工業野球部のキャプテンを務めていた国府田等さん(写真/国府田さん提供)

 動画を見た私は、当事者に会ってみたいと思った。誤審後のラフプレーや威圧的なふるまいを肯定するつもりはない。今と40年前では当然、時代が違う。だが、映像から伝わってきた40年前の球児のむき出しのエネルギーをあらためて振り返ってもらいたいと思ったのだ。

「職場でもよく『見たよ』って話題にされるんですよ。飲み会中に動画を見せてくる人がいたり。今日も仲間のグループLINEに『取材を受けるよ』と流したら、『ソリ込み入れて行ってください』なんて言われましたよ」

 国府田さんはそう言って、切れ長の目をさらに細めて笑った。当時、額にソリ込みを入れるのが、血気盛んな野球部員のトレンドだった。国府田さんたちは鬼のツノのような形状から「鬼ゾリ」と呼ばれた深いソリ込みを入れ、周囲の高校球児たちから恐れられていた。

「当時は『カワコウ』と言えば川口工業でしたけど、今は『カワコウ』と言うと川口高校と思ってしまう人が多いみたいですね」

 国府田さんは少し寂しそうにそう言った。川口工業こそ、国府田さんの母校であり、「大誤審事件」の主役だった。1977年夏には甲子園初出場を果たし、当時の埼玉県内では強豪に位置づけられていた。

 川口市は「鋳物(いもの)の町」と呼ばれ、かつては「キューポラ」という溶解炉がにょきにょきと突き出ていた。川口市のゆるキャラ「きゅぽらん」はキューポラをモチーフにしている。鋳物職人も多い土地柄で、手に職をつけたい若者にとって川口工業は魅力的な学校だった。学校には優秀な人材が集まり、家業を継ぐ者や一流企業へと就職する者たちを輩出していった。

 だが、その人気も時代の変化とともに徐々に低迷していく。いわゆる「やんちゃ」と言われるような生徒が多くなっていった。

 1970年代後半から1980年代にかけて、全国的に「校内暴力」が社会問題化した。川口工業も国府田さんいわく「一般生が町を歩けば、道を開けられる」という学校になっていた。

ピンクのユニフォームを着た白石麻衣さん可愛すぎる始球式>>

 だが、誰もがケンカに明け暮れていたかといえば、違うと国府田さんは力説する。

「大きなケンカ沙汰を起こせば、野球部が出場停止になってしまう。野球部じゃない生徒もそれはわかっていたので、『迷惑をかけないようにしよう』という連帯感があったような気がします」

 国府田さんが川口工業を進学先に選んだのは、中学の2学年上の先輩がエースとして甲子園に出場し、憧れを抱いたからだった。だが、中学3年時には強豪・上尾の野本喜一郎監督から熱心な勧誘を受け、上尾の練習にも参加している。

 当時、投手だった国府田さんの隣で投球練習をしたのが、同じく中学3年生だった仁村健司さん。薫さん(元巨人ほか)、徹さん(元中日ほか)との「仁村三兄弟」の三男だった。

 しかし国府田さんはスター選手が揃う上尾ではなく、川口工業への進学を決める。「カワコウのほうが甲子園に近い」と見ていたからだ。

 ところが、上尾は1979年夏、1980年春に甲子園出場と躍進する。国府田さんは父から「お前も上尾に行っておけば甲子園に行けたのに……」と嘆かれるたびに猛反発し、よく親子ゲンカをしていたという。

――上尾にだけは、絶対に負けたくない。

 そんな鬱憤をため込んだまま、国府田さんは高校最後の夏を迎える。そして埼玉大会準決勝で宿敵・上尾と対戦したのだった。

 動画サイトにアップロードされたのは、実は決勝戦の熊谷商業戦だけでなく、準決勝の上尾戦もある。熊谷商業戦の誤審ばかりが注目を浴びるが、もし現代の高校野球で上尾戦のような試合があったら、間違いなく大炎上するような案件である。

「あの試合はやりすぎました」

 申し訳なさそうな表情を浮かべて、国府田さんは当時を振り返り始めた。

中編につづく>>