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「甲子園の優勝投手はプロで大成しない」というジンクスは、今も野球界に根強く残っている。1980年以降でそのジンクスを打破した代表的な投手は、桑田真澄(PL学園→巨人)と松坂大輔(横浜→西武)だろう。
2000年以降では、2005年夏に甲子園優勝投手となった田中将大(駒大苫小牧→楽天/現・ヤンキース)の活躍は言うまでもなく、2008年春のセンバツで優勝した東浜巨(沖縄尚学→ソフトバンク)は2017年最多勝に輝き、今シーズンを開幕投手として迎えた。
近年では、2016年夏の優勝投手・今井達也(作新学院→西武)、2017年夏の優勝投手・清水達也(花咲徳栄→中日)が芽を出し始め、チームの若き原動力として期待を集めている。
とはいえ、甲子園優勝投手が手放しにプロで活躍できるというわけではない。とくに大学を経由した投手にとっては、高い壁として立ちはだかっている。

今年4月、興南高校の職員になった島袋洋奨(写真右)と我喜屋優監督
今からちょうど10年前の夏、沖縄は異様な盛り上がりを見せていた。夏の甲子園で沖縄代表の興南が春夏連覇をかけて出場し、圧倒的な攻撃力に加え、”琉球トルネード”の異名をとったエース・島袋洋奨(元ソフトバンク)の力強いピッチングで、史上6校目の偉業を達成したのだ。
連覇を達成した島袋の甲子園での成績はこうだ。
春:5試合(46イニング)/投球数689/被安打35/奪三振49/失点7/防御率1.17
夏:6試合(51イニング)/投球数783/被安打47/奪三振53/失点12/防御率1.94
島袋のすごさは数字だけではない。ここぞという場面でギアを上げ、精密機械のような制球力で三振を奪う。誰もが島袋の未来は輝かしいものに見えた……。
ところが、プロでは一軍の登板はわずか2試合のみで、ほとんどが二軍、三軍暮らし。昨年10月に戦力外通告を受け、5年間のプロ生活を終えた。
なぜ島袋はプロで大成しなかったのか。巷でよく言われるのが、大学時代の酷使によって壊れてしまったと……。それに対し、島袋の答えはこうだ。
「大学2年の春までは調子がよかったんです。春のリーグ戦で開幕から2連勝し、調子がよかったので次の日大戦も投げました。でも、ここでヒジがぶっ飛びました」
島袋が大学2年となった2012年春のリーグ戦。2年連続開幕投手に選ばれた島袋は、開幕カードの東洋大戦で強烈なインパクトを残した。1回戦で延長15回をひとりで投げ抜き、チームは3対2でサヨナラ勝利。島袋は226球を投げ、21個の三振を奪った。
「センバツ決勝の日大三高戦で198球を投げたことはありましたけど、200球を超えたのは初めてでした」
その2日後、島袋は中1日で東洋大との3回戦に先発し、7回(92球)1失点の好投で勝利し、チームは勝ち点1をゲットした。
さらに翌週、中6日で日大との1回戦に先発し、8回122球を投げて4失点ながらも勝利し、開幕から3連勝。だがこの時、島袋の左ヒジは悲鳴をあげた。左ヒジ内側側副じん帯に血腫ができ、すぐにドクターストップがかかった。ヒジが回復するまで、約5カ月のノースロー調整を強いられた。
「東洋大戦の226球と、それから中1日で先発したことで全盛期の投球ができなくなったと周りから言われますが、開幕カードの時は肩・ヒジは大丈夫だったんです。次のカード(日大戦)で休める勇気があれば変わっていたのかなと……」
島袋は1週間で3試合に登板し、30イニングで441球を投げた。これは現代野球ではありえない数字だ。調子がよかったことと、エースの重責を果たさなければという使命感が招いたケガだった。当時の監督の無茶な起用により、島袋は壊れたという声が多い。興南連覇のメンバーである大湾圭人は言う。
「今まで大きなケガをしたことがない(島袋)洋奨にとって、長期離脱は野球人生初めてで、これによってフォームをはじめ、何から何まで狂ってしまったんじゃないかと思っています」
一方で、島袋の少年野球時代の監督であり、連覇メンバーである慶田城開の父・広さんはこう語る。
「息子が幼馴染で大学でも一緒だったものですから、島袋のことはずっと見ていました。原因はいろいろあると思いますが、大学に入ってから筋肉をつけたことでバランスを崩したのではないでしょうか」
島袋に異変が起きた根本の原因は、いまだにわからない。ただ、明らかにおかしくなったのは大学3年の秋だった。青学大との1回戦で初回から突如ストライクが入らず、2者連続フィアボールから連打をくらい、初回4失点KO。さらに、その後の国学院大戦でも1回1/3、3失点でノックアウトされた。
「青学との試合はバックネットに投げまくりました。次の駒澤大戦も何球か暴投してしまったんですが、なんとか8回まで投げ切ることができました。でも、その次の国学院大戦で暴投を連発して、完全に終わった感じです。キャッチャーが届かないほどボールが大きく逸れた時に、『もうダメだ』と。それまでも投げる時に気持ち悪さというか違和感があったのですが、国学院大戦で終わりました」
島袋は俗に言う”イップス”になってしまったのだ。
「大学4年春のリーグ戦の時には、とうとうフォームがわからなくなり、腕が縮こまってしまって、キャッチボールもまともにできなくなりました。『マウンドに上がりたくないなぁ』って、しょっちゅう思っていました。自分のフォームへの対処法がわからず、ただ単に投げていただけでした」
キャッチボールをしてもまともに投げられない。ブルペンに入っても「早く終わってくれ」と願うだけ。しまいには、ボールを触るのも嫌いになる。うまくなりたいと練習しているはずなのに、焦りだけが募る。気がつけば、島袋のピッチングはグチャグチャになってしまった。
大学時代から島袋を見ていたパフォーマンスドクターの松尾祐介はこう語る。
「プロに行くような選手は持って生まれたセンスがあるため、幼い頃から人に教えられなくても勝手に身体が動いていいプレーができてしまう。そのため、できているプレーに対して見つめ直すことをあまりしない。だからトレーニングひとつをとってみても、自分で検証せずに間違ったトレーニングを受け入れてしまい、その結果、感覚がおかしくなってイップスにつながるケースもあります。
メンタルを整えることで治るイップスはむしろ軽度なんです。イップスは、身体の回路まで変わってしまうことがあります。技術で補える時もあれば、重度の場合は身体の形まで変わってしまうこともあります。島袋くんの場合は、メンタルの部分もありましたが、身体のほうを変えていかなくてはいけない状態でした。いい感覚を取り戻すには、以前は身体のどういう部位を使ってピッチングを行なっていたのかをトレーニングによって確認していきました」
松尾のおかげで島袋は最悪の状態から脱し、なんとか2015年のドラフトでソフトバンクから5位指名を受けた。だが、入団してからも島袋はずっと苦しみ続けた。
「プロになってからもコントロールの悪さは変わらなかったです。三軍からのスタートでしたが、心機一転という気持ちにはなれませんでした。投げるたびに不安になって……その気持ちは引退するまで消えませんでした」
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心に不安を抱える選手が、弱肉強食のプロの世界で通用するわけがない。先述したように、島袋のプロ野球人生は5年で終わってしまった。
2020年4月1日、島袋は母校・興南高校にいた。応接室で我喜屋優が監督としてではなく校長として、島袋に辞令の証書を渡しているシーンが地元テレビのニュースで流れた。
沖縄では、かねてから2010年の春夏連覇のメンバーの誰かが、いずれ興南に戻ってきて指導者になるだろうと噂されていた。おそらくキャプテンの我如古盛次か島袋のどちらかだろうと……。だから、島袋が興南に戻ってきたことは、沖縄県民にとっては喜びもあったが、安堵の気持ちが強かった。
「沖縄で生まれ育った人間にとっては、やはり沖縄は特別な地です。大学から本土へ行かせてもらい、そこで学んだことを沖縄に持ち帰って何かの役に立ちたいと考えた時に、母校である興南高校が自分にとって最大限の力が発揮できる場所だと思いました。
我喜屋先生から教わった『野球を通して人生をいかに生きるか』という意味をしっかり考え、行動に移す。高校、大学、プロといいことも悪いことも経験したなかで、子どもたちに何か人生の指針となるものを与えていければと思います。沖縄に恩返ししたいという思いはありますが、今は一歩ずつ着実に地固めをしていく時期だと思っています」
島袋の肩書きは入試広報部の事務職員であり、現在、教員免許取得を目指している。口にこそ出さないが、学生野球資格回復を視野に入れ、ゆくゆくは興南高校野球部の指導者を目指しているのは、誰の目から見ても明白だ。
昨年末に一児の父となった島袋の視線の先には、はっきりと見えているものがある。そこにたどり着くまでは、少しの気の緩みも許されない。自らを律し、邁進していく島袋に死角はない。あとは、時が早く経てと願うばかりだ。