追憶の欧州スタジアム紀行(12)スタディオ・ルイジ・フェッラーリス(ジェノバ) 欧州でクラブサッカーのダービーマッチを観戦するのは、この試合が初めてだった。1994年4月、スタディオ・ルイジ・フェッラーリスで行なわれたサンプドリア対ジェ…

追憶の欧州スタジアム紀行(12)
スタディオ・ルイジ・フェッラーリス(ジェノバ)

 欧州でクラブサッカーのダービーマッチを観戦するのは、この試合が初めてだった。1994年4月、スタディオ・ルイジ・フェッラーリスで行なわれたサンプドリア対ジェノアのジェノバダービーである。

 上から青白赤のユニフォームに身を包むサンプドリアと、黒白青のジェノア。ホームのサンプドリアサポーターが陣取るのは、正面スタンドから見て右側のゴール裏席で、その応援旗が、天井部手前に設置されたレールを伝ってカーテンのごとく広く幕を張ると、場内の殺気は最高潮に達するのだった。

 その光景を、発煙筒の火の粉を容赦なく浴びながら撮影するカメラマンの姿は、いまだ鮮明に記憶にある。ジェノバは港町。そのダービーは、さながら海賊たちの戦いをイメージさせた。



ジェノアとサンプドリアの本拠地、スタディオ・ルイジ・フェッラーリス

 サンプドリアには当時、1987年にバロンドールに輝いたルート・フリットがいた。背番号4を付け、ロベルト・マンチーニとともに2トップを張っていた。前半13分には、ハーフウェイ付近から4人を抜き去りシュートを決めた。

 後半14分に放ったシュートも圧巻だった。そのインステップキックは、GKステファノ・タッコーニの真正面に飛んだにもかかわらず、彼はパンチで逃げた。ズドーン! 瞬間、スタジアムは、ヘビー級のボクサーのパンチが炸裂したような重低音に揺れた。

 その翌シーズン、セリエAで得点王に輝いたガブリエル・バティストゥータ(当時フィオレンティーナに所属)のシュート音も、筆者はミラノのサンシーロで聞いている。こちらもスタジアムを震撼させる、まさにドスの利いた一撃だったが、どちらにより仰天したかと言えば、フリットのキックになるになる。

 ご承知のように、スタジアムはイタリア語で「スタディオ」と言われる。日本人は、それを聞いて、より密閉された空間をイメージする。フリットのシュート音が、サンシーロで聞いたバティストゥータのシュート音に勝った理由は、「スタジオ度」でルイジ・フェッラーリスが勝っていたからだ。密閉性が高い分だけ、重く響いたのである。

 ルイジ・フェッラーリスは、その4年前に開催されたイタリアW杯の会場で、期間中4試合で使用された。全12会場の中で収容人員が最も少ないスタジアム(3万1823人)ではあったが、最も見やすいスタジアムであった。

 もちろんサッカー専用スタジアムだ。全景をひと言でいえば、箱形をしたミラノ・サンシーロの小型版。2015年に吹田スタジアムが完成した時、筆者は<アイブロックス(グラスゴー)+ルイジ・フェッラーリス>÷2と、記しているが、アイブロックスや吹田に近いスタジアムであることは確かだ。

 だがスタンドの傾斜角は、2階席が35度ある吹田より急だ。上階はそれ以上ありそうなサンシーロ、さらにはバレンシアのメスタージャ、サンティアゴ・ベルナベウ、ヨハン・クライフ・アレーナなど、世界的に急角度だと言われているスタジアムを凌ぐ。

 初めて訪れたのは90年イタリアW杯。通路を歩く際に鉄柵に手を掛けていないと落下してしまいそうな、まさに壁にへばりついている状態に興奮した記憶がある。スタンドの傾斜角についてうるさくなったのも、この観戦がきっかけだと思うが、それはともかく、94年4月のダービー観戦からほどなくすると、三浦知良のジェノア入団が決まった。

 ご承知のとおり、カズはサンシーロで行なわれた1994-95シーズンのセリエA開幕戦、対ミラン戦(9月4日)にスタメン出場したものの、前半の途中、ミランのフランコ・バレージ主将と空中で激突。鼻を骨折し、その後、戦列を離れることになった。

 セリエAで挙げた初ゴールは、12月4日に行なわれたサンプドリアとのダービーマッチ。その試合を見逃してしまった筆者は、年明け早々、日本代表が出場したキング・ファハド・カップ(インターコンチネンタルカップ/サウジアラビア)を観戦すると、その足でジェノバに向かった。

 1995年1月15日、対パドバ戦。カズは後半28分、途中出場を果たすも、流れはパドバに。その挙げ句、同点とされてしまった。しかし、最後の最後になってカズは見せ場を作る。終了間際、右からの折り返しを鮮やかに決め、アントニオ・マニコーネのゴールをアシストした。

 事件が起きたのは、その2日後。夜の10時過ぎだった。滞在していたブリストル・パレスというジェノバ市内のホテルで、CNNのニュースを眺めていると、その画面はいつの間にか、ヘリコプターが映し出す映像に切り替わっていた。

「えっ」と目を凝らせば、カメラは倒壊した高速道路を映し出していた。続いて、住宅街の各所から火の手が上がる映像に切り替わった。ナレーションはない。慌ただしいヘリコプターの音のみが響いていた。

 これ、日本じゃない? 日本とイタリアとの間に存在する時差は7時間。日本では早朝5時台の出来事だった。阪神淡路大震災。その悲惨な映像を、日本から遠く離れたジェノバのホテルで眺めることになった。

 カズは結局、わずか1シーズンでジェノアを退団。帰国した。21試合に出場して、挙げたゴールは先述のダービーでの1ゴール。ルイジ・フェッラーリスに駆けつけたものの、肝心のカズが出場しないことはよくあった。

 だが、シーズン後半、ジェノバ・プリンシペ駅からスタジアムまで、乗ったタクシーの運転手は、こちらが日本人であることを確認すると、こう言った。

「今シーズン、すでに日本からジェノバを訪れた観光客はすでに8000人を超えたと言われている。カズ様々。商売繁盛だよ」

 いまから四半世紀前の話になるが、当時はイタリアブームの絶頂期でもあった。ちょうどイタリアは、1月10日過ぎからバーゲンで、たとえばミラノのショッピング街は、多くの日本人女性で溢れていた。その流れで、ミラノから電車で2時間ほどの距離にあるジェノバまで足を伸ばす人も少なくなかった。

 ミラノに買い物に行き、ジェノバのルイジ・フェッラーリスでカズの試合を見る――それは、1995年1月当時、最先端を行くトレンドとされていた。

 阪神淡路大震災は、そんな世の中が半分浮かれたムードの中で起きた大災害だった。震災を振り返る番組を見るたびに、その光景をひとりで眺めたジェノバのホテルを思い出す。さらにはルイジ・フェッラーリスの「スタジオ感」や、傾斜角の鋭いスタンドの眺望が蘇る。カズのプレー以上に。