毎年ドラフト候補のインタビューをしていて、勝手ながら「もし自分がスカウトだったら絶対にほしい」と感じてしまう選手がいる。今年なら、迷わず伊藤大海(ひろみ)の名前を挙げたい。
 話しているうちにこの投手の強い眼圧に引き込まれ、穏やかな口調で語られる独特な感性や思考にメモをとる手が止まらない。いささか気が早いが、

「プロ野球はこんな選手が一流に君臨する世界であってほしい」と思わせるだけの引力がある。




昨年行なわれた日米大学野球選手権で好投した伊藤大海

 プレー姿を初めて見たのは、伊藤が駒大苫小牧に在学していた高校1年の秋だった。伊藤は1年生ながらエース格として明治神宮大会に出場する。だが、当時のサイズは身長173センチ、体重67キロと平凡で、球速は常時130キロ台前半に留まり、「総合力で打ち取る、うまい投手」という印象が残っている。

 それから5年後、全日本大学野球選手権で苫小牧駒澤大のエースとして再び神宮球場に戻ってきた伊藤は、同一人物とは思えないほど変貌していた。

 身長176センチ、体重80キロと肉体はたくましさを増し、エネルギッシュな腕の振りから放たれたボールは150キロを超えた。しかも、速球はただ速いだけでなく、一球見ただけで打者をひるませる迫力と球威があった。
 伊藤には空白の時間がある。高校卒業後、上京して駒澤大に進学したものの、1年で中退。すでにリーグ戦でも登板していたが、伊藤は

「4年間プレーするビジョンを描けなかった」と振り返る。北海道に戻り、苫小牧駒澤大に入り直した。

 規定により、1年間はリーグ戦の出場が禁じられた。伊藤はこの期間が「もっともつらく、もっとも成長できた時間」と振り返る。
「試合に出られないこともあって、どういう体の使い方をするのがベストなのか、深く掘り下げて考えるようになりました」

 そして伊藤はひとつの疑問にたどりつく。
「肩慣らしのキャッチボールは必要なのか?」

 一般的に投手は短い距離から軽く腕を振って体を温め、肩をつくっていく。だが、伊藤はこの過程は自分には合わないと感じていたという。
「僕はゆっくり投げるとヒジを押し出してしまうクセがあって、肩慣らしのキャッチボールをすると、変なクセを体に覚えさせてしまう気がしたんです」

 そこで伊藤は「キャッチボールの1球目から100パーセントの力で投げたい」と考え、独自の調整法を編み出す。

 試合当日の朝、伊藤はまずウォーキング、ランニングで自分のコンディショニングや天候などプレー環境をチェックする。その後、静的ストレッチ、動的ストレッチで体をほぐし、サイドステップなどのウォーミングアップをする。

 ここから伊藤が特殊なのは、野球の投球動作を一つひとつ細かく分解した動きを、メディシンボールなどを使って確認していくのだ。

「僕のなかでは、ここでもうキャッチボールが始まっている感覚です。一つひとつの動作を確認して、おかしいと思う部分があればストレッチに戻ってやり方を変えたり。ここで40分くらいかけますね」

 ウォーキングから約1時間30分の時間をかけて体の状態と動作を検査し、ようやく1球目から100パーセントのキャッチボールが始まる。大学2年時には、すでにこの調整法が定着していた。春のシーズンで6勝0敗をマークした伊藤は、大学選手権に出場する。まさにその時、私は伊藤のあまりの変貌ぶりに驚かされたわけだ。

 大学選手権では日本文理大から10三振を奪って完投。24時間と空けずに連投した慶應義塾大戦では打ち込まれたが、主砲の郡司裕也(現・中日)は完璧に封じ込んだ。のちに大学日本代表候補合宿に招集された伊藤は、郡司から「明らかに俺のときだけボールが違っただろ」と声をかけられたという。

 伊藤は言う。

「名の知れた大学、名の知れたバッターには打たれたくないんです」

 2年生にして大学日本代表入りを果たした伊藤は、名実ともに大学屈指の存在になったのだった。

 小学校から大学まで、専門的な投手コーチから指導を受けることなく、独学で自分の技術を磨いてきた。ドラフト上位候補になるまでの原動力は、日の目を見なかった小学生時から養われた負けん気だった。

「小学校、中学校と同じチームにはエースの渡辺幹理(かいり/北海高→中央大)がいて、僕はいつも2番手でした。小学6年の時に渡辺と一緒に12球団ジュニアトーナメントのファイターズジュニアのセレクションを受けたんですけど、渡辺は合格して僕は不合格。いつも渡辺に負けっぱなしで、泣きながら帰って練習したのを覚えています」

 渡辺のように脚光を浴びたい。日陰で過ごした時間が、伊藤を努力へとかきたてた。その当時から、全体練習で課せられるメニュー以外に、自分でメニューを考えて取り組む習慣ができたという。また、当時から球質のよさは周囲から褒められており、「いつか体ができれば絶対にスピードも速くなるはず」という自信もあった。

 名門の駒澤大を中退して、部員数が少なく環境的に恵まれているとは言えない苫小牧駒澤大に入学した際には、周囲から「なんでやめたの?」と決断を疑問視されることもあった。言い訳をしようと思えばいくらでもできたが、伊藤はしなかった。

「どの大学だろうと、やるのは自分自身ですし、こんな雪が降って設備も整っていない場所を選んで、強くなることに意味があると思っていました」

 大きな飛躍を遂げた一昨年から一転、昨年はやや不本意な年だった。6月の大学日本代表候補合宿に参加した伊藤のボールを見て、私は違和感を覚えた。前年ほどボールが走ってないように見えたのだ。当時の印象を伝えると、伊藤は観念したような苦笑を浮かべてこう明かした。

「2年秋に左足首を骨折した関係で、先ほどお話ししたキャッチボール前の準備がうまくできなくなってしまって……。3年のときはただ気迫だけで投げていました」

 左足を上げ、着地するだけで恐怖感があったため、常にクイックモーションで投げた。足首をかばううちに肩も不調に陥る悪循環。それでも伊藤は大学日本代表に選ばれ、日米大学選手権では全5試合にストッパーとして登板して優勝に貢献する。この経験は伊藤にひとつの自信をもたらした。

「本当ならもっと力を出せるのに……という思いはありましたけど、それでも抑えられたのは気持ちで負けていなかったから。僕は技術ばかり追い求めていると見られがちなのですが、それだけじゃない部分も見せられたと思います」

 昨年は左右両足の太ももの長さは6センチも差があり、アンバランスな状態だった。だが、昨年オフのトレーニングで改善され、心身ともに充実したコンディションで迎えた大学最後の春。伊藤の身に降りかかったのがコロナ禍だった。

 4月に緊急事態宣言が発令されてから2カ月近く、個人練習の期間になった。だが、日頃から自己管理や調整法を工夫していた伊藤にとって、大きな戸惑いはなかった。むしろこの時期を「プラス要素に換えられた」という。

「最近器具を使ったトレーニングに頼りすぎていて、自分の体を扱うためのランニングや自重トレーニングが疎かになっていたんです」

 アマチュアながらTwitterやYouTubeで積極的に情報発信をしており、見ず知らずの選手、保護者から技術的なアドバイスを求められることも多い。このスタイルは、憧れのダルビッシュ有(カブス)から受けた影響も大きいという。

「もしプロになれたとしても、情報発信は続けていきたいですね」

 ここまで精神的に自立した選手に、「将来どんな選手になりたいですか?」と質問するのも野暮に思える。そこで、「どんな存在になりたいですか?」と尋ねると、伊藤は少し考えてからこう答えた。

「僕は『美学』って言葉は好きではなくて、歯を食いしばって全身全霊でやっていくのがかっこいいと思っています。野球少年・少女に向けて、そんな生き様を体現できる存在になりたいですね」

 どんな環境でも自分自身を見つめ、高めていく。胸にあふれんばかりの大志を抱く剛腕を、スカウト陣が放っておくはずがないだろう。