JR東日本時代、現広島・田中広輔の指導で体得した“コーチの極意” 懐かしき横浜大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)で活躍した、銚子利夫さん(現法政大学野球部助監督)の野球人生にスポットを当てる後編。古葉竹識監督の下で三塁のレギュラーポジ…

JR東日本時代、現広島・田中広輔の指導で体得した“コーチの極意”

 懐かしき横浜大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)で活躍した、銚子利夫さん(現法政大学野球部助監督)の野球人生にスポットを当てる後編。古葉竹識監督の下で三塁のレギュラーポジションを獲得した銚子さんだが、指揮官が交代すると徐々に出場機会が減り、1991年オフには長内孝外野手との交換トレードで広島に移籍した。

「広島に行ったことで球界に人脈が広がったというか、知り合いが増えました」。32歳だった93年限りで現役引退し、翌94年には、横浜ベイスターズと名を変えた古巣に2軍育成コーチとして復帰した。以後13年間にわたって2軍コーチを務め、その後、編成担当、スカウトを歴任して退団。そして2011年に、大きな転機を迎えた。

「JR東日本野球部で、守備・走塁を指導することになりました。きっかけは、慶応大学出身で東京六大学の同期の堀井哲也監督(当時)から頼まれたこと。当初はアドバイザー、その後コーチとして契約するようになりました」。東京六大学同期の絆は強く、堀井監督の他、現日本ハムの斎藤佑樹投手を擁して全国制覇を成し遂げた早実高・和泉実監督(早大出身)、現楽天の松井裕樹投手を育てた桐光学園高・野呂雅之監督(同)、全日本大学野球連盟の内藤雅之常務理事(立大出身)らとは、いまも会食や草野球をともにする仲だ。

 JR東日本には昨年まで9年間携わり、11年の都市対抗優勝、12、13年の同準優勝に貢献した。指導した選手の中で印象深いのが、2年間在籍後にドラフト3位で広島入りした田中広輔内野手である。田中は東海大相模高、東海大を通じ現巨人の菅野智之投手と同期で、自身もプロ入りを熱望していたが、指名から漏れていた。

「入社当初からプロでやっていける素質は十分ありましたが、“お山の大将”でしたね。彼の方から『教えて下さい』と言ってくるまで放っておきました。それがよかったと思います。本人のプライドがあるので、僕の口から詳しい指導内容を明かすことができませんが、プロ入りまでの1年半、言うことをよく聞いてくれました」

 田中広のプロ入り後の活躍は、銚子さんにとって「選手は1人1人性格も持ち味も違うから、コーチはそれぞれどう接していくかをよく考えなくてはならない。1番聞く耳を持つタイミングを見計らってアドバイスすることが重要だ」と再認識する契機になった。

東京六大学野球リーグも開幕延期、現在は8月に開催を検討

 昨年12月、堀井監督が慶大監督に転じたことから、銚子さんもJR東日本を離れ、母校・法大の助監督に就任した。川崎市の第1合宿所に住み込み、単身赴任。新型コロナウイルスの感染拡大をうけて、妻と次男が住む横浜市の自宅にはこの1か月以上帰っていない。

 4月11日開幕予定だった東京六大学の春季リーグ戦は、8月に延期した上、通常の「2戦先勝方式の総当たり勝ち点制」を断念し、異例の1試合総当たり制に変更して行う方針だ。法大野球部も活動を停止し、寮生の約3分の2が自宅に帰省。残った選手もグラウンドや室内練習場の使用が禁止されていることから、ランニング、キャッチボール、素振り、スポンジのボールを打つ程度の練習しかできない。毎日マネージャーが全選手の体温、練習内容をチェックし、集約した書類には銚子さんも目を通している。「特に投手の肩の出来が心配です。公式戦の数が減れば、4年生の就職に響いてくる可能性がある。早く試合をやらせたいのが本音です」と気遣う。

 ベイスターズで13年、JR東日本で9年、そして法大へと、指導者として多彩なキャリアを積んできた。「これまで勉強させていただいた知識、経験を落とし込んでいきたいです。一方で、大学野球はあくまで教育の一環ですから、規律を重んじ、人間形成につながるように掃除とか整理整頓とか、細かいことを含めて厳しく指導していくつもりです。20歳前後の部員たちが『うるせえな』と感じることは想像がつきますし、僕自身も在学中はそうでしたが、後々規則正しい行動が身についてよかったと思えるはずです」と意欲満々だ。

「僕はずっと1年契約の世界でやってきたので、部員たちにも1日1日を大切にして、いまできることを一生懸命やってほしい」と付け加えた。かつて4番・投手・主将として自ら甲子園初出場の原動力となった“銚子高校の銚子君”は、いまやベテラン指導者として若い学生たちの背中を見つめている。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)