高校野球・名将たちの履歴書第4回 渡辺元智(横浜) 横浜高監督の渡辺元(はじめ/1997年から現在の元智となる)は、初め…

高校野球・名将たちの履歴書
第4回 渡辺元智(横浜)

 横浜高監督の渡辺元(はじめ/1997年から現在の元智となる)は、初めてセンバツに出場(1973年)した大会前のある日、ひとりで甲子園球場のフィールドを歩いた。

「ちょうど芝の手入れをしていたのか、グラウンドに入れてくれましてね。初めて甲子園の土を踏み、外野のフェンス沿いをゆっくり歩いて、この看板とあの看板を結んだところに守らせようと考えたり、マウンドにも立ってみたり......感激しましたね」



横浜高を率いて、甲子園で春3回、夏2回の優勝を飾った渡辺監督

 この大会で横浜は、小倉商(福岡)との初戦で延長13回に長崎誠が大会史上初のサヨナラ満塁本塁打で勝利すると、投げては新2年生の永川英植(えいしょく/元ヤクルト)が3試合完投と大車輪の活躍。広島商との決勝でも永川が延長11回を1失点完投で投げ抜き、3−1で横浜が初優勝を遂げた。この時、渡辺は28歳だった。

「永川は入った時からすごかった。変化球はからっきしダメでも、とにかくボールが速かった。すごく真面目な男で『走れ』と言ったら、いつまでも走っているんですよ。ただ貧血気味で、肉やほうれん草を食べさせたいんだけど、合宿所の食事はおかずがせいぜい2品。だから、ランニングと称して我が家まで来させ、こっそりと肉を食べさせました。

 この時の大会は、どのチームも"打倒・江川卓(作新学院)"。うちも前年の秋、関東大会の決勝で対戦して、4安打16奪三振と完璧に抑えられました。当時はマシンがありませんから、実際の半分くらいの距離からピッチャーが投げて、とにかく至近距離であの速さを体感しようと。畳を何枚も重ねて、その上から投げさせたりもしました。結局は、その江川くんを倒した広島商と決勝を戦うわけですが、"打倒・江川"の練習が優勝につながったと思います」

 広島商との決勝はスコアレスで進み、延長10回表に横浜が待望の先制点。面白いのはここからだ。

「その裏、レフトの冨田(毅)が打球をグラブに当てて落とし(記録はヒット)、同点。勝ったと思ったところのエラーで、ベンチに戻ってきて冨田を注意しようと思っていたら、警戒してなかなか私の近くに来ない(笑)。ただ、間(ま)が空いたことで、ちょっと冷静になれたんです。自分でも不思議なのですが、冨田に『次、打てばいいじゃないか』と声をかけました。

 そうしたら、冨田は涙を流すんです。普段はやんちゃで、注意してもケロっとしているヤツが、涙を流すんです。優しい言葉をかけられるなんて思いもしなかったのでしょうね」

 そして11回表、二死一塁から打席に入った冨田が、優勝を決める2ランホームランを放つのである。今では好々爺にして人格者の渡辺にも血気盛んな時代があったのだ。

 無理もない。なにしろ当時の横浜には「野球がなかったら、将来どうなっていたかわからない」(渡辺)ような、ひと癖ある選手が揃っていたのだ。

 渡辺は戦中の1944年生まれ。家が貧しかったため叔母の家と養子縁組し、田中姓から渡辺姓となる。

 横浜高3年夏は神奈川県大会の準決勝で敗れるなど、甲子園出場は果たせなかった。卒業後、神奈川大に進学するも、肩を痛め、手術したが完治せず、2年途中で野球を断念。プロ野球選手という目標を失うどころか、プレーすらままならず、車を乗り回し、酒を飲み、ケンカに明け暮れる......「自暴自棄の日々だった」という渡辺は、結局、大学も中退する。

「野球部のコーチをやってくれないか」

 母校から電話を受けたのは、そんな失意のなかにいた1965年だった。

「やらせてもらいます」と、また野球ができるという思いで即答したが、指導者としてなんの理論も経験もない。それから3年後の1968年に監督になっても、ただがむしゃらに厳しい練習を課すだけだった。

「とにかく、日本一厳しい練習をすれば勝てると思っていました。選手が立てなくなるまでノックをやったし、暗くてボールが見えなくなれば車のヘッドライトを灯してやってこともありました。当時の神奈川には、桐蔭学園に木本(芳雄)さん、東海大相模に原(貢)さん、横浜商に古屋(文雄)さんがいて、いずれも厳しい練習をしていた時代。あの人たち以上にやらなければ勝てないと」

 だが、「オレについてこい! 闘志なき者はグラウンドを去れ」といった熱血指導は、うまく回転している時はいいが、いったん歯車が狂うと、経験不足や理論の甘さがボロを出す。

 事実、春夏連覇を目指した1973年夏は、つまらないミスから神奈川大会準々決勝で桐蔭学園に敗れ、甲子園出場すら逃してしまう。永川が3年になった1974年はセンバツには出場したが、夏は神奈川県大会決勝で東海大相模に惜敗。夏の甲子園は遠かった。

「どうしても夏の甲子園に出られず......スパルタでもいいじゃないかと思いながらも、もうひとつ壁を破れない自覚もありました。周囲は73年の優勝校という目で見ますし、自分が変わらなければチームの成長もないのでは、と考えるようになりました」

 そう感じた渡辺は、教員免許取得のために関東学院大に通いはじめる。同時に「横浜百人の会」という団体にも名を連ね、異業種や違った分野の人々と交流した。

 白幡憲佑(元全日本仏教会理事長/故人)ら高僧の話を聞き、そのつながりで知り合った山口良治(元伏見工ラグビー部監督)とは兄弟のような付き合いをした。

 すると、選手との距離感、そして野球を見る視野が広がった。

「たとえば、手取り足取り教えるのではなく、黙って見守るのも指導だと考えるようになりました。あとで言葉をかければ、『見ていてくれたんだ』という信頼が築けるんです」

 初めて夏の甲子園に出場したのは1978年のことである。愛甲猛(元ロッテなど)が入学し、甲子園でも初戦で徳島商に2失点完投、11奪三振と、その才能を見せつけた。ところが......である。

「甲子園から帰って新チームがスタートし、秋の大会が終わったあと、愛甲が練習に出てこなくなったんです。寮からもいなくなりました。1年生で活躍して騒がれて自分を見失ったのか、上級生のやっかみもあったんでしょう。愛甲の家がある逗子まで何度も迎えに行き、説得しました。ところが、気持ちは変わらないと。もう手は尽くした、しょうがないと......。

 そうしたら、愛甲が警察に補導され、私が迎えに行ったんです。それをきっかけに我が家で預かることにしたんです。愛甲は家庭環境が複雑で......口にできない寂しさもあったんでしょう。ひとりでは心細いと思って、同級生の安西(健二/元巨人)も一緒に住ませました。そこからやっと、愛甲が練習に戻ってきたんです」

 そして愛甲と安西が3年になった1980年、横浜は初めて夏の甲子園で全国制覇を達成することになる。3回戦では愛甲が鳴門高(徳島)を5安打完封し1対0で勝利。9回表に三塁打を放ち、相手のミスでホームを駆け抜けたのが安西だった。

 その後も渡辺は甲子園で勝利を重ね、歴代4位タイの51勝を記録。1998年には松坂大輔(西武)を擁し、史上5校目(当時)の春夏連覇を達成した。また、愛甲、松坂をはじめ、多くのプロ野球選手を育て上げた。渡辺は2015年の夏を最後に勇退。半世紀近く続いた指導者生活について、こう振り返った。

「これだけ長くできたのは、初めての甲子園の初戦で長崎のサヨナラ満塁ホームランがあったから。あれがなきゃ、私の監督人生は始まらなかったでしょうね」

 大会史上初のサヨナラ満塁弾。その快音は、今も渡辺の耳に焼き付いている。

(文中敬称略)