あのブラジル人Jリーガーはいま第2回ベベット(後編)>>前編を読む 1994年、アメリカW杯でブラジルを優勝に導いたベベット。ロマーリオとの友情や、準々決勝オランダ戦で得点を決めたあとの"ゆりかごダンス"のパフォーマンスは、今も語り草になっ…
あのブラジル人Jリーガーはいま
第2回ベベット(後編)>>前編を読む
1994年、アメリカW杯でブラジルを優勝に導いたベベット。ロマーリオとの友情や、準々決勝オランダ戦で得点を決めたあとの"ゆりかごダンス"のパフォーマンスは、今も語り草になっている。
1997年、ブラジルのクルゼイロは、その年のコパ・リベルタドーレスを制して、日本でトヨタカップ(現在のクラブW杯)を戦うことになった。対戦相手はドイツのドルトムント。なにがなんでもタイトルがほしかったクルゼイロは、前代未聞の行動に出た。たった1試合のために選手をレンタルし、その選手がベベットだった。残念ながらクルゼイロは0-2で敗れてしまったが、それでもクルゼイロは日本滞在中、話題を独占した。
現在は政治家になったベベット。ブラジルW杯開催にも尽力した photo by Getty Images
この時、私自身にもベベットとの間にちょっとしたエピソードがある。私は日本に取材に行った数少ないブラジル人記者だった。トヨタカップの2日前、私は宿泊するホテルの廊下でベベットとすれ違った。私が記者だと知って、彼はこう尋ねてきた。
「昨日のヴァスコ・ダ・ガマ戦の結果を、君の社に電話して聞いてくれないか?」
私が「電話するよりもいい方法がある」と言うと、彼は私を部屋に招いてくれた。私は仕事用に小さなパソコンを持っていた。私は彼の部屋でモデムを使い、インターネットにつなぎ、パソコンの画面にブラジルの新聞を呼び出して見せた。ヴァスコ・ダ・ガマは勝利していた。
ベベットが大喜びしたのは、その結果よりも、インターネットのほうだったかもしれない。なぜなら、その後たっぷり2時間、彼はネットについて私を質問攻めにし、数日後、秋葉原に行ってノートパソコン2台を購入したのだ。その時の友情は今もまだ続いている。
1989年のコパ・アメリカ、1994年のW杯、1997年のコンフェデレーションズカップのほか、ベベットはブラジルで唯一、2つのオリンピックでメダルを勝ち取っている。1988年のソウル五輪での銀メダルと1996年のアトランタ五輪での銅メダルだ。
ベベットはそのサッカー人生で、ヴィトーリア、フラメンゴ、ヴァスコ・ダ・ガマ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ(スペイン)、セビージャ(スペイン)、クルゼイロ、ボタフォゴ、トロス・ネサ(メキシコ)、鹿島アントラーズ、アル・イテハド(サウジアラビア)の10のチームでプレーしている。合計で387本のゴールを決め、その多くが重要なもので、これらチームに多くのタイトルをもたらした。
彼が来る前は小さなチームだったデポルティーボ・ラ・コルーニャは、ベベットの加入により、バルセロナやレアル・マドリードを脅かすチームとなり、ラ・コルーニャには、彼の名前を冠した道がある。
2000年、彼は鹿島アントラーズ行きを決めた。この時はイングランドのサンダーランドからのオファーもあったが、日本行きのためこの誘いを断った。
「アントラーズのほうが魅力あるチームだったからだ」
その理由を彼は私にそう教えてくれた。
ただ、日本でのベベットは、残念ながら本領を発揮することなく終わってしまった。わずか8試合に出場しただけで鹿島を去ることになってしまったが、彼自身はもう少し残っていたかったようだ。日本について彼はこう語っていた。
「日本で暮らせば暮らすほど、きっとこの国が好きになるよ」
プロになって20年目の2003年、39歳でベベットは引退を決めた。セレソンでは15年プレーし、3回のW杯に出場している。
現在、ベベットはロマーリオと同様に政治の世界に身を置いている。2010年にリオデジャネイロ州議会議員選挙に立候補して当選、その後も2回再選されており、2度目の選挙では6万票も集めた。また彼はブラジルW杯組織委員会にも参加していた。
リオに住み、妻のデニセと暮らしている。彼女はベベットの3人の子供の母であり、15年間、ベベットのエージェントを務めている。長男のニュートン・ジュニオールは残念ながら選手としては芽が出なかった。末っ子のマテウス・オリベイラは先にも述べたようにスポルティング・リスボンのプロ選手だ。娘のソフィアはモデルをしている。
見た目は、56歳になる今も現役の頃とあまり変わらない。引退後、体型が膨らんでしまう選手が多いなかで、相変わらず華奢で小柄だ。一見、レジェンド級のサッカー選手とは思えないが、まぎれもなくブラジルの歴代トップ30に入る選手である。
前編を読む>>
ベベット
本名ジョゼ・ロベルト・ガマ・デ・オリヴェイラ。1964年2月16日生まれ。フラメンゴに6シーズン所属した後、ヴァスコ・ダ・ガマ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ、セビージャなどで活躍。2000年には鹿島アントラーズでプレーした。ブラジル代表として1990年イタリアW杯、1994年アメリカW杯、1998年フランスW杯に出場。