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「悲運のエース」が沖縄から見つめる高校野球の未来(中編)

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 1990年夏の甲子園決勝進出で、県民の沖縄水産への期待感はさらに高まった。新チームになりエースとなった大野倫は、プレッシャーも感じながら野球に打ち込んだ。

「安定感はなかったのですが、背番号1を背負ってから責任感が出て、ピッチングは劇的によくなりました。(先輩の)神谷(善治)さんの甲子園での投球をイメージして、インサイドにシュートを投げ込んだり、フォークを覚えたりして、ストレート一辺倒で押し切るタイプから投球に幅が出てきたんです。投げ込みの量は増えました。新チームになってから、多い時で1日400球、平均でも150球から200球は投げていました」



ひじの痛みに耐えながらも甲子園の6試合をひとりで投げ抜いた大野倫

 新チームとなった1990年の秋は、九州大会の1回戦で延長14回の末に鹿児島実業に敗れ、センバツ出場は逃した。

「(年が明け)春のシーズンが始まってからは、ダブルヘッダーでもひとりで投げました。むしろ、試合のほうが1日の球数は減ったぐらいですね。栽(弘義)先生からは気が緩むと手が飛んできました。当時は普通でしたし、そういう環境なんだと思っていました」

 大野は4月に熊本に遠征し、鎮西高とのダブルヘッダーをひとりで投げきり、球速は自己最速となる145キロをマークした。しかしその後、ゴールデンウィーク期間中の練習でボールを投げた時、右ひじから「ブチッ」という音が聞こえた。

「あっ、やってしまった。ひじがぶっ飛んだと思いました。それまでと痛みの種類が違って、この痛みだけはどうにもならないと……。でも、大会まで1カ月ぐらいしかなかったので、何とかして乗り切るしかないなと思っていました」

 大野は右ひじの異変を誰にも言わず、病院にも行かなかった。痛みから逃れるため、投球練習はせずにひたすら走った。だが、大野のケガを知らないチームメイトは、投球練習をしない大野に不信感を抱くようになる。グラウンドの草刈りの時に、チームメイトから「怠けるな!」と草刈り鎌を持って追いかけられることもあった。

 甲子園をかけた沖縄大会が始まったが、沖縄水産は大野の不振もあって、1回戦は美里工に6対4と苦戦。それ以降も大野の調子は上がらなかったが、打線の奮起もあり、チームは準決勝に進出。対戦相手は強豪・那覇商だった。

「もうどうにもならないと思って、栽先生に『ひじが痛いんです』と言いました。先生もうすうす察知していたようで、お医者さんと相談して、試合前に痛み止めの注射を打つことにしました」

 注射の効き目は抜群だった。ひじの痛みが完全に引いた大野の好投もあって、那覇商を5対1で下す。そして決勝戦の前にも注射を打ち、豊見城南を6対2で破り、沖縄水産は2年連続の夏の甲子園出場を果たした。

 大野は甲子園でも痛み止めの注射を打って投げるつもりだったが、栽は大野に「甲子園では痛くても工夫して投げなさい」と言った。

「栽先生がなぜこう言ったのか真意はわかりませんが、僕の将来のことを案じてくれていたのではないでしょうか。整体師や針、電気、超音波治療など、あらゆる方法をやってくれました」

 新チーム発足時にはもうひとり投手がいたが、腎臓に障害を負って野球を断念した。だから、大野は甲子園でもひとりで投げるしかなかった。

 北照(南北海道)との1回戦は4対3の辛勝。明徳義塾(高知)との2回戦も接戦となったが、6対5で制した。投手としては打ち込まれたが、4番を打つ大野は打撃でチームに貢献。3回戦の宇部商(山口)は7対5、準々決勝の柳川(福岡)も6対4といずれも僅差の勝利をものにした。

「甲子園では1、2回勝てれば……と思っていましたが、打線が活発で勝ち進むことができました。当初、チームメイトも僕の故障について知らなかったようですが、新聞にひじに爆弾を抱えているという記事が出て、そこからチームの戦い方が変わりましたね。『大野は終盤に打たれるので、何とか打線で取り返そう』というのが合言葉になりました。終盤に点を取られるのは織り込み済みで、みんな地に足をつけて戦えたので、慌てなかったですね」

 準決勝の鹿児島実業戦は6回まで7対2とリードしたが、大野は7回以降につかまり4点を失う。それでも辛うじてリードを守り、7対6で勝利。2年続けて夏の甲子園決勝に進出した。

 決勝の相手は創部4年で決勝まで上がってきた大阪桐蔭。決勝前、大野は栽監督から「監督とエースは一心同体だよ」と言われ、覚悟を決めた。しかし同時に「投手としてはこれが最後の試合になるだろう」とも思った。

 沖縄水産は5回表まで7対4とリードしていたが、その裏に6点を奪われ逆転を許すと、その後も追加点を取られ8対13で敗れた。甲子園での6試合をひとりで投げきった大野の投球数は773球に上がった。試合後、大野は栽監督から「お疲れさん、よく頑張ったな」と声をかけられた。

「決勝はさすがにもうどうにもならなかった。バッティングピッチャーみたいでした。球速は120キロも出ていなかったと思います。相手の大阪桐蔭には背尾伊洋(近鉄、巨人)、和田友貴彦とふたりの投手がいました。前年の決勝で当たった天理(奈良)にも南竜次(日本ハム)、と谷口功一(巨人、西武、近鉄)というふたりの投手がいた。当時でも、強豪校は二枚看板が多かった。沖縄水産にももうひとり投手がいたら、結果は違っていたと思います」

 2年続けて準優勝に終わったが、県民は地元に戻ってきた沖縄水産ナインを大歓声で迎えた。主将の屋良景太は、帰宅後に閉会式のビデオを見て、グラウンドを行進する大野の右ひじが不自然な方向にねじ曲がっていることに気づいた。この時、チームメイトははじめて、大野の右ひじが深刻な状態であることを知った。

 沖縄に戻り検査を受けた大野は、「右ひじの剥離骨折」と診断された。亀裂も入っており、軟骨も欠けて、ビー玉くらいの骨片も見つかった。医師からは「このひじの状態ではピッチャーは無理だろうね」と言われた。こうして大野の”投手生命”は終わった。

 大野が故障しながらも決勝まで投げ続け、疲労骨折していたことは新聞でも大きく取り上げられた。当時の日本高等学校野球連盟会長の牧野直隆はこれを問題視し、「甲子園で球児が前途を断たれるようなことがあってはならない」と、医療体制の整備を指示した。

 1994年の春の甲子園から、大阪大学整形外科チームが大会前に出場校の投手の肩、ひじの診察を行なうことになった。大野は今に続く”高校野球のメディカルチェック”のきっかけとなった。そういう意味で、高校野球史に残る存在だったと言えよう。

 大野は高校卒業後、大学進学を希望していた。

「夏の甲子園前は、プロのスカウトの方も来ていましたが、故障してからは来なくなりました。ただ、オリックスには打者として評価していただいていました。でも、ひじのリハビリもあったので、九州共立大に進学することにしました。1年春はリハビリしながらDHとして試合に出場し、秋から外野手になりました」

 大野は翌年2月には、最年少の日本代表メンバーとしてアジア選手権に参加した。3年になると、日米大学野球とユニバーシアードで日本代表に選ばれる。4年では主将となり、福岡六大学リーグ新記録となる通算18本塁打を放った。

 大学屈指の強打者となった大野は、1995年のドラフト会議で巨人から5位で指名された。ちなみに、その年のドラフトで巨人は、2位で日本生命の仁志敏久、3位で東洋大の清水隆行を指名した。

「当時の巨人の外野には松井秀喜がいましたが、僕は即戦力として期待されていました。しかし、結果的に同期の清水が先にブレイクして、僕は出遅れた。開幕ベンチ入りをしたり、スタメンで起用されたりすることもあったのですが……」

 また当時の巨人は、毎年のようにFAで大物選手が入団してきた。1994年に落合博満、95年は広沢克己、97年は清原和博、2000年には江藤智。また98年にはドラフト1位で高橋由伸が入団するなど選手層は厚く、レギュラーへの道は遠かった。

 2001年にトレードで福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)に移籍。しかし、レギュラー定着にはいたらず、2年で戦力外となった。

「プロは結果の世界なので、言い訳はできません。でも、高校ではピッチャーとして甲子園の決勝まで行ったし、大学では打者として日本代表になったし、プロでも厳しい環境で7年間やらせてもらったし……やりきった感はありましたね」

 そうして大野は第2の人生を歩むことになった。

後編につづく