連載第13回(第12回はこちら>>)【特例で起用を続けた岩村明憲】――さて、今回からは「指導者としての八重樫幸雄」に…

連載第13回(第12回はこちら>>)
【特例で起用を続けた岩村明憲】
――さて、今回からは「指導者としての八重樫幸雄」に迫りたいと思います。コーチ、二軍監督時代に印象に残っている選手といえば、まずは誰が浮かびますか?
八重樫 やっぱり、岩村(明憲)だろうね。1997(平成9)年、僕が二軍監督(兼バッテリーコーチ)になった時に入団してきたのが岩村でした。基本的にウチの球団の方針としては「高卒1年目は体力作り」なんです。でも、新人自主トレの時に岩村を見て、「これはすごいぞ」ってなったんですよ。
ヤクルト、メジャーリーグでも活躍した岩村
photo by Sankei Visual
――自主トレの段階で「モノが違う」ってわかるものなんですか?
八重樫 わかります。トスをやらせたら、手首が柔らかいからバットのヘッドの使い方がうまいし、下半身は強かったし、走らせたら速かった。それで、当時の球団社長に「岩村は1年目の開幕から試合で使います」って宣言したんだよね。
――それは、ヤクルトにとっては異例のケースなんですね。
八重樫 異例ですね。社長からは「大丈夫なのか?」って心配されたけど、バッティングに関しては試合に出ながらいろいろなことを学んでほしかった。ただ、守備はまだまだだったから、社長には「戸田で試合をする時には、必ず毎日1時間は特守をやらせますから」と言ったら、「よしわかった。ただ、ケガだけは気をつけてくれよ」と認めてもらったんだよ。
――岩村さんのルーキーイヤーは、一軍での出場はなかったけれど、二軍では打率.316、10本塁打、38打点を記録しています。高卒ルーキーとしては合格点を与えられますね。
八重樫 バッティングに関しては何も心配していませんでした。当時、岩村を呼んで言ったのは、「今の二軍選手の中で、お前がもっとも一軍に近いところにいる。だから、みんながお前のために協力しているんだぞ」ということ。当時は大橋(穣)さんが二軍の内野守備コーチだったんだけど、つきっきりで守備を教えていましたからね。
――阪急時代には守備の名手としてならして、引退後も指導経験が豊富な大橋さんがつきっきりで指導するなら、すぐにうまくなったんじゃないですか?
八重樫 大橋さんの指導は厳しかった。岩村はうまくいかないと自分自身に腹が立つタイプで、すぐにカーッとくるんだけど、練習態度にも出ちゃう。負けず嫌いなのは悪いことじゃないんだけど。
【恩師・中西太の指導で才能が開花】
――自分で自分に腹が立つし、歯がゆいからということですか?
八重樫 うん。そうなんだけど、一度この件で岩村を叱ったことがあった。「自分に腹が立つのはわかるけど、ノックをしてくれているコーチに失礼だから、そういうのは影でやれ」って。でも、その後もそれは直らなかったから、彼に”罰”を与えたこともあったな。

1997年から2年間、ヤクルトの二軍監督兼バッテリーコーチを務めた八重樫氏 photo by Hasegawa Shoichi
――どんな罰だったんですか?
八重樫 練習後に彼を呼んで、「岩村、明日から1週間ユニフォームを着るな」と伝えたんです。岩村は、初日は寮でじっとしていたらしいんだけど、2日目は戸田で巨人戦があって、試合前のバッティング練習の時に土手でボール拾いをしていたみたい。僕はそれを寮長から聞いたんだけど、確かに3日目も土手で球拾いをしていたよ。
――反省しているのが伝わってきますね。それで、許してあげたんですか?
八重樫 「かわいそうだな」とは思ったけど、約束は約束だから……。それで彼も反省をしたんじゃないのかな? で、無事に1週間経って、それ以降は「クソーッ」と感情を表に出すこともなくなったね。
――やっぱり、野球選手にとって「ユニフォームを着るな」というのは、ものすごくつらい罰だったんですね。岩村さんといえば、中西太さんに師事して打撃が開花したという話もよく聞きます。中西さんとの出会いはどんなものだったんですか?
八重樫 中西さんは今でもそうだけど、あの頃もよくグラウンドに来て指導してくれたんです。中西さんも岩村を見てすぐに、「おっ、アイツはいいな」となった。それで、「指導してもいいか?」と聞かれたんで、「ぜひお願いします」と言ったら、熱心に指導してくれましたよ。
――中西さんといえば、若手時代の若松勉さんや、八重樫さんの指導者でもあります。八重樫さんからご覧になって、岩村さんへの指導は、かつて自分が教わったことと一緒なんですか? それとも、時代に応じて変化しているんですか?
八重樫 基本的には同じでした。僕も中西さんも同じ指導をしているから、その点は岩村もスムーズに受け入れやすかったのかもしれない。だから、僕らもさらに熱が入る。選手に信用してもらうと、指導者としても教えがいがあるからね。でも、中西さんの場合は「時代に応じて」というよりは、「個人に応じて」という感じで、その選手の体格や体の状態に応じて指導するタイプです。あらためて、中西さんは立派な指導者だなと思いましたね。
――どうしてですか?
八重樫 中西さんは僕らがいる前でしか指導しないんです。バッティングコーチもいるわけだから、その点はきちんと一線を引いていました。そして、本人に言うのではなく「今、ガン(岩村)はこうなっているから、こんな指導をしたほうがいいのでは?」と、僕らにもアドバイスをくれたりしたんです。
【池山隆寛の存在で、岩村はさらなる成長を】
――のちに岩村さんはメジャーリーグでも活躍しますが、ある関係者から「性格もプロ向きだった」と聞いたことがあります。八重樫さんからご覧になって、岩村さんの性格はどのように見えていましたか?
八重樫 素直でチームに迷惑をかけないいいヤツでしたよ。ただ、自分の考えをしっかりと持っていて、先輩に対しても向かっていったりしたから、「岩村は生意気だ」と思ったヤツもいただろうね。でもプロで一流になるのは、どっちかっていうと人の意見を聞かない”変人”が多いから、それでいいんだと思うけど(笑)。
――八重樫さんは岩村さんに対して、どんなことを注意したんですか?
八重樫 岩村には、「反抗してもいいけど、チームには迷惑をかけるなよ」と何度も言いました。その点については何も問題なかったですよ。あとは、池山(隆寛)の存在も大きかったと思います。
――後に池山さんの背番号1を受け継ぐことになる岩村さんですが、当時の岩村さんはまだ若手で、池山さんは現役の晩年を迎えたベテランでした。両者はどのような関係だったのですか?
八重樫 さっきも言ったように、岩村は先輩に対しても臆することなく自分の意見を言うタイプだったけど、池山はそんな岩村のことをかわいがっていました。岩村も池山のことを慕っていたんじゃないのかな? 「兄貴、兄貴」ってなついていたからね。
――以前、池山さんに「岩村を育てるために彼には厳しく当たった」というお話を聞きました。「岩村は自分の後継者だ」という思いがあったんですか?
八重樫 それはあったと思いますね。「自分はもうこれ以上伸びない。じゃあ、次はガン(岩村の愛称)だ」っていう思いがあったんじゃないかと。だからなおさら厳しいことを言ったんだけど、岩村は素直に応えた。それが、後の成功につながったんだと思います。フラフラやっていただけでは、現役生活はすぐに終わっていたでしょうね。
――球団社長に直訴してまで、「1年目から使い続ける」と言った八重樫さんにとっても、岩村さんの成長、ブレイクはうれしかったでしょうね。
八重樫 それはうれしかったですよ。なにしろ、メジャーに行ってもレギュラーになって試合に出るわけだから。ただ、そもそも彼には才能があったのも事実だし、そのあとも必死に練習を続けた努力の成果だと思う。後に僕が東北担当のスカウトになった時、彼は(BCリーグの)福島レッドホープスの監督で、よくグラウンドで会いましたね。
――そうか、岩村さんが選手兼任監督時代に、福島のグラウンドで再会しているんですよね。
八重樫 福島での岩村は「選手」であり、「監督」であり、「社長」も務めていたから、何から何までひとりでやって「たいへんだな」って思ったよ。ルーキー時代を知っているだけに、本当に立派になったなと思ったし、うれしかったな。
(第14回につづく)