向正面から世界が見える~大相撲・外国人力士物語第6回:蒼国来(1) 2003年秋場所(9月場所)、中国の内モンゴル自治区出身として初めて、初土俵を踏んだ蒼国来。日本式の相撲は未経験だったものの、抜群の運動神経と筋肉質の体を武器にして番付を上…

向正面から世界が見える~
大相撲・外国人力士物語
第6回:蒼国来(1)

 2003年秋場所(9月場所)、中国の内モンゴル自治区出身として初めて、初土俵を踏んだ蒼国来。日本式の相撲は未経験だったものの、抜群の運動神経と筋肉質の体を武器にして番付を上げ、2010年秋場所、新入幕を果たした。

 ところが翌年4月、八百長疑惑によって、引退勧告を受けることに……。それを不服とした蒼国来は、2年以上にわたり、潔白を訴え続けた。

 そうして、裁判を経て、その訴えはついに認められ、2013年名古屋場所(7月場所)で土俵復帰。以降、現役力士として奮闘し、2017年初場所(1月場所)では、技能賞を受賞した。36歳になった今も、玄人受けする相撲で土俵を沸かせている蒼国来の、波乱万丈の相撲人生に迫る--。

        ◆        ◆        ◆

「魚って、こんなに美味しいんだ!」

 2003年6月、力士になるために日本にやって来た私を、荒汐部屋の近所のお鮨屋さんに連れていってくれたのは、師匠(荒汐親方=元小結・大豊)でした。

 来日した頃の私の体重は、80kg台。力士志望としてはかなり細身です。力士として番付を上げていくためには、体重を増やし、体を大きくしなければならない。そのためには、日本の食べ物を好き嫌いなく食べることが必要だと師匠は考えていたんでしょうね。

 19歳まで内モンゴルで生活していた私は、日本に来るまで、生の魚を食べたことはありませんでしたが、美味しい鮨屋のカウンター席で、マグロのお寿司を食べた私は、幸せな気分になりました。赤身、トロなど、次々に出てくるお寿司を平らげた私を見て、「この子は(相撲界で)やっていけるんじゃないか?」と、親方も少し安心したと聞いたのは、それから数年経ってからでした。

 内モンゴルの田舎で生まれ育った私の小さい頃の楽しみは、お正月。あちらでは旧正月(※1月21日~2月20日の間。国や年によって、毎年異なる)を祝うのですが、草原にある私の家に親戚が馬に乗って遊びに来たり、うちの家族が親戚の家に挨拶に行ったり……。美味しいご馳走も食べられる1年に1回の交流が、本当に楽しくて、幸せな時間でした。

 小学校に入った頃から、スポーツは得意でした。モンゴルの遊牧民の家に生まれた逸ノ城もそうだったように、家で使う水を汲みにいくのは、長男の私の仕事。そのほかにも馬に乗ったり、動物を追いかけたり、いつも体を動かしていたから、自然と運動神経が発達したのでしょう。「スポーツに関しては誰にも負けたくない」という気持ちでしたね。

 中学生の頃には、学校の先生にも「将来は、スポーツで身を立てたらどうか?」と言われていたので、卒業後は田舎を出て、省都・フフホトのスポーツの専門学校に入ることになったんです。1998年の冬のことです。

 その時点では、どんなスポーツをやるか決まっていなかったんですが、その後、ボクシングをやることになりました。30~40人くらいいるボクシング部員は、みんな走るのが速くて、私はついていくのがやっと。「向いていないのかなぁ」と悩みましたね。

 そんな時でした。学校では1年に1回、部対抗のモンゴル相撲大会があって、私がボクシング部代表として出場したところ、レスリング部代表の3人に勝っちゃったんです。そうしたら、レスリング部の監督が「おまえは、絶対レスリングをやったほうがいいよ」と。

 そもそも私は、殴り合いが嫌いだったのですが、この学校を紹介してくれた人がボクシングを勧めてくれたので、それに従っていただけでした。そうした事情もあって、ボクシング部とレスリング部の監督が話し合った結果、数週間後、私はレスリング部に転部することになりました。

 学校の寮の3階にあるボクシング部の部屋から、2階のレスリング部の部屋へ--。布団を持って2階に移っただけなんですけど、その時の情景がいまだに忘れられません。

 2000年6月28日。私にとって、運命の日になりました。

 その後、レスリング部で練習に励んで、中国国内の大会でベスト8になることもできました。その最中の2003年1月、朝青龍関が「モンゴル人初の横綱になった」というニュースが内モンゴルでも大きく報道されました。

「へぇ~、日本の相撲か。モンゴル相撲とは全然違うなぁ」

 この時、私は初めて大相撲のことを知ったのです。

 そして、4月。のちに師匠となる荒汐親方が力士候補生を探しに内モンゴルにやってきたのです。

 もちろんその時、私は荒汐親方のことを知りません。あとから聞いた話ですが、格闘家の山本”KID”徳郁さん(故人)のお父さん(山本郁榮氏=レスリング指導者)と、荒汐親方が友人で、たまたま「モンゴルから横綱出たねぇ」というような話をしていたところ、「モンゴルだけじゃなくて、内モンゴルというところにも運動神経のいい子たちがいますよ」と、山本さんが言ったそうなんです。

 それで、親方が「ぜひ内モンゴルに行ってみたい」と、ウチの学校に視察に来たというわけです。

 親方は、レスリング部、柔道部などを回って選手たちを観察していました。その中から、体のガッチリしている選手3人ほどに目をつけたらしいです。ところが、その人たちは年齢が23~24歳で、大相撲の入門規定(23歳未満)にひっかかってしまい、入門できないことがわかったのです。

 レスリング部としては、せっかく日本から親方が来てくれたので、部を代表して誰かを大相撲の世界に行かせたいという希望があったようです。そこで、監督、先輩方が話し合いをして、選ばれたのが私だったんです。



中国の内モンゴル自治区出身、初の関取となった蒼国来

 正直、断れるような雰囲気じゃなかったですね(笑)。「どうしようかな?」と迷っていた私に、監督がこんな条件をつけてくれました。

「エンクー(私の本名)、このままレスリングをやっていっても、いい成績を残せるだろうけど、(一度)大相撲に行ってがんばってみたらどうだ? その代わり、1年間がんばってダメだったら、学校に戻ってきて、レスリングをやれる環境を保証するから」

 そこまで言われて、うれしかったですね。

「たとえダメでも帰ってこられる。だったら、行ってみようかな?」

 すごく軽い気持ちで、「ハイ、わかりました」と言ってしまいました(笑)。

 そんな私の決断に、一番ビックリしたのは、田舎の両親です。

「オレ、日本に行くことになったから」

 当時自宅には電話がなくて、隣に住んでいるお爺ちゃんの家に電話をしたんですが、「相撲って、何? ちょっと待てよ」みたいな感じで、家族中が混乱していましたね。

 私の日本行きの手続きは着々と進んでいましたが、ちょうどその頃、世界的にSARSという感染症が流行。中国から海外への渡航が難しくなっていました。

 すぐにでも入門したかったのですが、結局、私が日本の地に降り立ったのは、それから2カ月後の6月28日。そう、ボクシング部からレスリング部に移った運命の日と同じでした。

 成田空港には、親方をはじめ、山本”KID”さんまでが出迎えに来てくれていました。

(つづく)

蒼国来栄吉(そうこくらい・えいきち)
本名:エンクー・トプシン。1984年1月9日生まれ。中国・内モンゴル自治区出身。荒汐部屋所属。玄人好みの取り口と実直な人柄で根強い人気を得ている。少年時代は、放牧生活を営む実家で、馬や牛、羊、山羊、犬に囲まれて育つ。昨年9月に日本国籍を取得。2020年初場所(1月場所)時点での番付は、十両10枚目。