PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第12回2020年7月の東京オリンピック開幕まであと9カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を…

PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第12回

2020年7月の東京オリンピック開幕まであと9カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 生まれ育った宮崎を出て東海大相模高へ進学した頃から、井上康生は次代の男子重量級を担う逸材と期待されていた。その成長の大きな追い風になったのが、1998年から体重別のカテゴリーが変更されて100kg級が誕生したことだった。



シドニー五輪柔道男子100kg級で金メダルを獲った井上康生

 それまでの井上は、100数kgの体重だったが、試合では最重量級の95kg超級で自分よりも20~30kg重い選手たちと戦わなければならなかった。当時、国際柔道連盟の役員も務めていた東海大の恩師、佐藤宣践氏は「私はルール改正の最前線にいたので、『これは井上康生のために作った階級じゃないですか』とからかわれた」という。

 自分より重い選手に勝ち最強になりたい、という思いが井上にはあった。95㎏級で戦っていた兄・智和とも戦わなければいけないことに躊躇する気持ちもあった。しかし、山下泰裕氏(当時全日本柔道男子ヘッドコーチ、現日本オリンピック委員会会長、全日本柔道連盟会長)の「100㎏級でチャンピオンになってみろ」という言葉と、佐藤氏の「より早く、確実にお前が世界の頂点に立てるのは100㎏級だ」という言葉も階級変更を決意させた。

 井上は98年アジア大会では優勝したが、99年に入ると不調に襲われた。全日本体重別では準決勝で敗れたものの、ライバルの鈴木桂治も敗れたため、井上は世界選手権の初代表に選ばれた。6月下旬には母・かず子さんが急死するという不幸にも見舞われたが、10月の世界選手権では荒々しい攻めの柔道を貫いて、あっさりと優勝を果たした。

 世界チャンピオンとして臨んだ00年シドニー五輪。井上は2月のフランス国際の4試合をオール一本勝ちで優勝すると、代表選考会を兼ねた全日本体重別も3試合すべてで一本勝ち。文句のない成績で五輪代表の座を勝ち取った。

 だが、全日本で担当コーチになった高野裕光は、井上の強さはまだ本物ではないと考えていた。うまく波に乗って運を引き寄せれば世界で勝てる強さはあるが、五輪で勝つためにはさらにワンランク上の稽古をしなければダメだ、と高野は考えた。そしてスタミナをつけるために、8月の最終合宿では井上を限界まで追い込んだ。

 その練習が、井上に自信を植え付けた。父の明さんは、シドニーに入って久しぶりに会った井上が、すでに優勝を確信したかのような落ち着きを見せていたことに驚いたという。試合前に会うことを遠慮していた親戚に対しても、自分から誘って一緒にお茶を飲んで歓談したほど余裕があった。

「自分は去年、世界チャンピオンになっている。その後もおごることなく、世界一の練習をしてきた。世界一の男が、世界一の練習をしてきたのだから負けるはずがない」

 こう自分に言い聞かせていた井上は、柔道初日に60kgの野村忠宏と48kgの田村亮子が優勝した姿を見ても、それをプレッシャーには思わず、「やっぱり強い奴が勝つんだ」と思って安心したという。

 その姿勢は試合当日になっても変わらなかった。

 朝の計量に出発する時は、コーチの高野に起こされて出発したほどだった。昼になり試合会場への出発時間が迫った時も、高野が井上の部屋をのぞきに行くとまだ眠っていた。高野は、自身が出場した84年ロサンゼルス五輪だけではなく、コーチとして参加した92年バルセロナ五輪と96年アトランタ五輪でも担当選手にメダルを獲らせていなかった。そんなプレッシャーに襲われていた高野に対し、井上は「大丈夫ですから。僕は勝ちますから」と平気な顔で言い切った。

 9月21日、2回戦から登場した井上は、最初の相手だったケセル(キューバ)との組み手争いが始まったとたんに、「やっぱり研究してきているな」と気がついたという。「細かい部分では駆け引きがあって、どれもが厳しい戦いだった」と言うが、それでも最初の試合は開始18秒に大外刈りで一本勝ちすると、3回戦のゴウイング戦(ニュージーランド)では背負い投げを繰り出して16秒で仕留めた。

 反則覚悟で組手を嫌う相手を冷静に見据え、ワンチャンスを見逃さずに自分の技を一閃させる、凄みさえ感じさせる柔道だった。準決勝のグイド(イタリア)にも鮮やかに一本勝ちした井上だったが、決勝のギル(カナダ)との一戦はさらに鮮やかに勝利した。

 自身の得意技である、鋭い切れ味の内股でギルを畳の上にたたきつけたのだ。完璧な勝ち方だった。100kg級の選手の中で、井上のキレのある動きは飛び抜けていた。

「決勝はああいう形で勝とうとしていたわけではないし、泥臭くても何でもいいから勝ちたい、という気持ちでいました。偶然に父に教えてもらった内股で勝ったけれども、内股はきれいに見える技ですからね。

 終わってみれば何とでも言えるけど、大外刈りでも大内刈りでもあんなにきれいな形にはならない。自分が持っている技の中で内股はいちばん華麗で、美を追求する技のひとつじゃないかと思っています。子どもの頃から教え込まれてずっとやってきたからこそ、最後の最後で出たんだと思います。なんというか、まるでドラマやシナリオがちゃんとできていたみたいですね」

 その後の表彰式で、表彰台へ向かった井上のジャージーは、腹部のあたりが膨らんでいた。何かを隠し持っているようだった。真っ先に名前をコールされて表彰台に上がると、井上はそこからおもむろに母の遺影を取り出し、それを高々と掲げた。

「バレバレの入場でしたね。最初は母の遺影を普通に持っていこうとしたけど、スタッフにダメだと言われたんです。母親の遺影だと説明したら、それならかくして持っていけ、と許してくれて、『表彰台に上がってしまったら誰にも止められないから、何をしてもいいよ』と笑顔で言ってくださったんです。でも、あれなら誰でも許してくれると思います。別に見苦しいことをしたわけじゃないし、僕は正しいことをやったと思っています」

 そして、「母には生きていてもらいたかった。表彰台に上がる姿を見てもらいたかったから、すごく複雑な気持ちです」と続けた。その脳裏には、喜んでくれている母親の顔がよぎったのか。喜びに満ち溢れた表情で話しをしていたインタビュー時間中、唯一彼の口調が戸惑いを見せた瞬間だった。

 前年の世界選手権でのことだ。代表には選出されたものの、井上は苦しんでいた。1月の嘉納杯国際柔道と3月のハンガリー国際では共に3位。代表選考の全日本体重別に続いて、全日本選手権でも優勝できなかった。そんなさなかに届いたのが、母の悲報だった。

 だが、苦しい状況を救ってくれたのも母だった。亡くなる10日ほど前、井上に食べ物などを送る際に、荷物に入れ忘れていた手紙があった。それを思い出した父・明さんが、その手紙を、全日本学生柔道団体戦に出場するために葬儀を終えてすぐ東京に帰る井上に渡した。

 母からの最後の手紙は、息子を心配する気持ちが溢れていた。不調に陥って自分の柔道がわからなくなっていた井上に、「柔道を好きで好きでたまらなかった、小さい頃の気持ちを思い出してほしい。すべて、初心に戻って頑張ってください」と記してあった。

 気持ちを取り直した井上は、合宿で自信を取り戻す練習をすることができた。そして世界選手権の初舞台に、兄・智和も練習パートナーとして同行してくれた。

 その世界選手権の試合後、井上はこう話していた。

「今回の勝因は、自分の実力以上に母が助けてくれたことです。観客席では父がずっと母の遺影を持っていてくれましたが、1回戦から同じところを通っていたのに、僕の視線には一度も入らなかった。でも、決勝の時だけは『よしッ』と思って顔を上げたら、真ん前に母の写真が見えたんです。

 その途端に気合いが入って、決勝に対する怖さがなくなりました。『一本を取るんだ』『優勝するのは俺だ』と強く思えました。だから今回は、母が助けてくれたという気持ちしかない。兄も付き人をやってくれたので、その意味では家族で一丸になって取れた優勝だと思います」

 世界選手権は母が獲らせてくれた金メダルだったなら、今度のシドニー五輪は、自分が亡き母に金メダルをプレゼントする大会にしなくてはいけない。そう思ったからこそ、一緒に表彰台へ立ち、その喜びを分かち合いたかったのだ。

 父の明さんはこう話した。

「優勝が決まって大喜びした瞬間に、遺影を落として表面のガラスが割れてしまったんです。でも、それがよかったんですね。ガラスがあったら危険物として表彰台には持っていけなかったようですから。ああいうことをできるように、神様が準備してくれたのだと思います」

 シドニー五輪後の井上は、01年と03年の世界選手権を制覇して大会3連覇を果たしたが、04年アテネ五輪では研究しつくされ、敗れた。その後は幼い頃からの夢でもあった最強を目指し、100㎏超級に挑戦した。だが、05年1月の嘉納杯国際柔道で右大胸筋腱断裂のケガを負った。その影響もあり、超級での世界制覇はならなかった。

 井上は、重量級の柔道にスピードを持ち込んだ存在だった。飛び抜けた切れ味を見せたシドニー五輪。そしてその優勝が、柔道の新しい時代を切り開いたのだ。