「最後だし、思い切って投げよう」 2016年10月。雨に濡れた日産スタジアムで、ひとりの中学生が投じた矢が雄大な放物…

「最後だし、思い切って投げよう」

 2016年10月。雨に濡れた日産スタジアムで、ひとりの中学生が投じた矢が雄大な放物線を描いた。記録を伝える電光掲示板には「71.32」の表示。当時中学生だった白川恵翔(けいしょう)が、ジュニアオリンピック陸上のジャベリックスローで日本のトップに立った瞬間だった。

「喜び以上に『えっ? 本当に優勝なの?』という思いのほうが強かったですね」

 当時の心境を語る柔和な表情には、写真で見た表彰台で微笑む少年の面影が残っていた。しかし、179センチ、80キロの均整の取れた体格からは、当時と比べ物にならないほど精悍(せいかん)な雰囲気が醸し出されている。



最速146キロを誇る池田高校の本格派右腕・白川恵翔

 最速146キロの直球を武器に、徳島の名門・池田のエースナンバーを2年夏から背負う本格派右腕。小学3年で始めて以降、野球一筋の白川だったが、通っていた中学校の教頭に強肩を見込まれ、中学野球引退後から小・中学生版のやり投げであるジャベリックスローに取り組んだ。

「中学の教頭先生から『肩強いし、やってみんか?』と声をかけてもらって、それならやってみようかな、と始めました。練習は1時間目の授業が始まる前の朝練がメイン。最初は全然感覚が掴めなくて、真っすぐ投げられませんでした」

 手探りの状態ながら、強肩を生かして徳島県予選を突破。本選が開催される神奈川に入ってから行なった練習で、ついに手応えを掴む。

「横浜に入ってからの練習でようやくしっくり感じ始めて。決勝の時は雨が降っていて、投げづらかったけど『最後だし思いっきり投げよう』と。いま思うと、それがよかったのかなあと思いますね」

 大会後は陸上の強豪校からの勧誘もあったが、白川の野球への思いが揺らぐことはなかった。

「そこから陸上に……とは思わなかったですね。高校でも野球を続けること、それも池田の野球部で甲子園を目指す意思がブレることはなかったです。ただ、ヒジの使い方だったり、ジャベリックスローをやらせてもらえたことが、今の投球にも生きているとは思います」

 池田で甲子園を目指す──白川が迷いなく決断した背景には、父の存在があった。

「父から池田の話を聞く機会が昔から多かったんです。蔦(文也)監督というすごい指導者がいたこと、あの時代から科学的なトレーニングをしていたこと……。いろんな話を聞かせてくれました。父も野球をやっていて、ケガがなければ池田で野球を続けるつもりだったと話していました。父の分まで自分が池田で甲子園を目指したいという思いがありました」

 白川の父は、”阿波の金太郎”の水野雄仁(現・巨人一軍投手コーチ)と同世代。「水野が投手として入学するから、ショートとして池田に」と蔦監督も熱心に声をかけた逸材だった。しかし、最終的には中学時代に受けた手術の影響で、高校で野球をすることを断念した。「完全燃焼できなかった父の夢を追いたい」という思いもあり、池田高校野球部の門を叩いた。

 名門のユニフォームに袖を通し、初めて公式戦のマウンドに立ったのは1年夏。2年夏からはエースナンバーを背負い、主戦として登板を重ねた。球速も2年時に140キロに到達。順調な成長曲線を描いていたが、2年秋の県大会後に腰椎分離症が発覚した。この期間について白川が振り返る。

「この時期は自分でも『思ったより球速が伸びないな』と悩んでいたタイミングでもありました。ケガが重なったこともあって、一度『スピードよりもキレを磨いてみよう』と考え方を変えてみたんです」

 背中側に腕を引きすぎるテークバックなど、投球フォームの見直しに着手。それだけでなく、指先を鍛えるために、砂が入ったボールを指でつかむトレーニングも取り入れた。

「菅野智之投手(巨人)がやっている動画を見て、自分も練習に取り入れました。やる前と今とでは回転数にかなり違いがでてきたと思います」

 手探りの状態ではあったが、故障明けの3年春の実戦で自己最速を更新する143キロを計測。そして、優勝候補の一角として臨んだ今年の夏は、準々決勝の川島戦で146キロをマークし、「大会屈指の本格派右腕」の名に恥じないインパクトを残した。そのときのことを白川はこう振り返る。

「秋に負けた川島との試合で、バッターは相手のキャプテン。『絶対負けない、必ず抑えてやる』という気持ちが前に出ていったのがよかったのかなと思います」

 こう話したあと、「でも……、やっぱり実力不足を感じた夏でした」と続けた。

「ずっと球速が伸び悩んでいると感じていて、最速を更新できたのはよかったんですが、まだまだ力が足りないとも思わされました。気持ちの面でも、もっともっと向かっていく姿勢が出ないといけなかったとも思います」

 夏の徳島大会は準決勝敗退。21世紀枠でセンバツに出場した富岡西に打ち込まれ、27年ぶりの夏の甲子園出場の夢は潰えた。

 高校野球引退後も、準決勝の翌日から練習を再開している。取材当日も精力的にウエイトトレーニングに励んでいた。

 指導にあたる監督の井上力(ちから)は、「課題は無数にある」と前置きした上で、白川のポテンシャルの高さを語る。

「150キロを投げてもおかしくないものがあると入学直後から感じていました。(2年秋の)故障があって、足踏みの期間がありながらも、最後は146キロ。『スピードガンと勝負するなよ』と常に言ってきて、球質に重点を置くなかでもここまで伸ばせたのはよかった。課題は多くありますが、体の強さがあるのは何よりも魅力。私の指導歴のなかでもナンバーワンの強さがありますし、それだけ将来性、可能性はあると感じます」

 体格や雰囲気から、同校OBの水野になぞらえ、”阿波の金太郎2世”とも呼ばれる。白川本人は「うれしさと同時に『自分がそう呼ばれていいのかな』という思いもある」と語るが、自身も池田の選手として甲子園を経験した井上はどう感じているのか。

「持っている潜在能力でいえば、”阿波の金太郎2世”と呼ばれるのに十分なものがあると思います。けれども、水野さんは高校時代に自身の完成度を高めて、甲子園でも大きな結果を残された。逆に白川は、現段階では完全な未完の大器、原石の状態です。そこを踏まえると、この呼び名はまだ早いのかな……と感じる部分はありますね(苦笑)。ただ、この呼び名が彼のモチベーションになっていたのは間違いないと思います」

 取材が終盤に差しかかった頃、井上に白川の魅力を訪ねると、こう答えが返ってきた。

「白川は、けっして現代的なスマートなタイプの選手ではありません。粗削りだけれども、真っ向勝負できるような馬力があって……。時代は令和になりましたけど、どこか”昭和の香り”が残っている。そこが魅力かもしれませんね」

 池田からのプロ入りとなれば、2001年ドラフトで巨人から5巡目で指名された十川雄二以来。”阿波の金太郎2世”は、同校にとっても18年ぶりとなる歓喜の瞬間を待ちわびている。