PLAYBACK! オリンピック名勝負---蘇る記憶 第8回

東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 男子100mで、日本は、1964年東京五輪と68年メキシコシティ五輪の両大会で飯島秀雄が準決勝に進出して以来、1996年のアトランタ五輪まで2次予選の壁を破れずにいた。また、200mも、東京五輪で飯島が棄権してからは、代表すら送り込めないありさまだったが、アトランタ五輪で、ついに準決勝に進出する選手が現れた。



男子100mを走る朝原宣治(写真右)

 躍進したのは、五輪初出場のふたり。当時、6月の日本選手権100mで自身が持っていた日本記録を10秒14まで伸ばしていた朝原宣治と、同じく日本選手権200m予選で自身が持つ日本記録を20秒44から20秒29に塗り替えていた伊東浩司だった。日本男子ショートスプリントで、個人で戦える可能性を持った選手が出てきたのだ。

 朝原は93年に10秒19の日本記録を出しながら、走り幅跳びにも力を入れていた。だが大学卒業後、走り幅跳びの指導を受けるためドイツに拠点を移すと、そこで筋力もついて100mでも記録を伸ばしていた。

 アトランタ五輪前には「狙うのは走り幅跳びで、100mは自分の走りをするだけ」と話していた朝原だったが、陸上初日7月26日午前の100m1次予選は、優勝候補のひとりドノバン・ベイリー(カナダ/決勝は9秒84で優勝)に0秒02遅れの10秒28で2位に入った。

「日本選手権の調子で走れば準決勝進出もあると思いながら、それほど甘くはないぞ、とも考えていた。でも、1次予選を走ってみて、もしかしたら、と思うようになった」

 そう話して臨んだ2次予選では、第1組で9秒95のアト・ボルドン(トリニダード・トバゴ)に次ぐ10秒19の2位になり、着順で準決勝進出を果たした。タイムこそ全体13番目の通過だが、余裕を持った確実な走りはほかの選手に劣るものではなかった。

 27日の準決勝第1組で朝原は1レーン。ベイリーのほか、2次予選9秒93通過のフランク・フレデリクス(ナミビア)や9秒95を持つマイケル・マーシュ(アメリカ)など、トップ選手が並んでいた。

「ドイツの試合でことごとく負けていたエマニュエル・テュフォー(ガーナ)とは、今回は対等に戦えるかなと思っていた。マイケル・グリーン(ジャマイカ/10秒04)に勝てば決勝に行ける、とも考えていた」(朝原)

 一度フライングがあって「緊張がほぐれた」朝原は、全体2番目のリアクションタイムの0・147秒で飛び出して、中盤は3、4位争い。後半もこれまでの日本選手のように固くなって失速することなく、リラックスしたフォームで走り抜けた。

「1レーンだったこともあり、レースの間は自分の走りに集中して周りはまったく見えなかった」という朝原は、10秒16で5位。4位とは0秒05の僅差で、惜しくも決勝進出を逃した。

「悔しさはけっこうありましたね。『決勝に出られたらな』とも考えました。これが今の実力だけど、後半はそんなに置いていかれなかったので、運が良ければ戦えるなと思いました」

 この時の条件は向かい風0.5m。日本選手権で出した10秒14が追い風0.9mだったことを考えれば、この日の朝原はその記録にほぼ匹敵する走りをしたと言える。さらに、3レースとも向かい風という条件でラウンドごとに記録を伸ばしたことも、これまでの日本選手にはなかった大きな可能性を見せるものだった。

 一方、200mの伊東も、朝原以上のラウンドの進め方をした。

 日本選手権のあとに「20秒29は確実に準決勝まで行ける記録。これまで日本人が果たせていない準決勝進出を実現して、短距離の歴史を作りたい」と話していた伊東だが、レース前には2次予選を壁に感じていたようで、こんなことも話していた。

「200mを走ること自体が、今年は2大会目。日本選手権でも決勝は20秒70とバテた終わり方だったので、調子をつかめなかった。朝原の100m準決勝進出は刺激になったが、『もし僕が1次や2次で落ちたら、予選の日本記録はフロックで、決勝記録が自分の本当の力だと思われてしまう。そんな目には遭いたくなかった』と考えたのが正直なところ」

 1次予選では、伊東は前半から飛ばして先頭で直線に入ると、最後は力を抜いて流す余裕も見せて、2位に0秒21差をつける20秒56で1位。2次予選では「自信を持って前半から強気に攻めていこう」と、20秒47の2位で準決勝進出を決めた。全体では7番目タイムでの通過だった。



男子200mを走る伊東浩司(写真左から2人目)

 前半でカーブを走る200mは、直線だけの100mとは違い、半径が小さい内側のレーンは不利になる。そのために、着順でしっかり次に進むことだけでなく、その次のラウンドで中央のシードレーンで走るためには、タイムも重要だ。1次予選で5レーンを走った伊東は、2次予選は6レーン。そして準決勝も6レーンと、シードレーンを確保する堂々たる準決勝進出だった。

 伊東は、92年バルセロナ五輪ではリレーで代表に選ばれたが出番はなく、スタンドでレースを観戦しただけだった。その悔しさを晴らすために、五輪後はウエイトトレーニングに本格的に取り組もうと決意。初動負荷理論を提唱・実践する、鳥取のワールドウイングの小山裕史に師事した。小山のもとでフォーム改造にも取り組んだ伊東は、まず200mで結果を出して、93年世界選手権に200mと4×100mリレーで出場。94年アジア大会では200mで2位になり、95年世界選手権も前回と同じ2種目に出場して、4×100mでは5位入賞のメンバーにもなった。

 初めて走る五輪の舞台で、1次、2次予選は納得の走りで通過した伊東だったが、準決勝は緊張感に襲われた。シードレーンに並んでいたのは、バルセロナ五輪2位で93年世界選手権優勝のフレデリクスや、7月に19秒85で走っていたボルドン、19秒73を持つマーシュ。アトランタ五輪の100mで2位、3位、5位に入った選手たちだ。

「内側の強豪3人は最初から眼中になく、相手はそれ以外のオバデレ・トンプソン(バルバドス)とスティーブ・ブリマコンベ(オーストラリア)に、1レーンのゲイル・モーエン(ノルウェー)」と考えていた伊東は、スタートのリアクションタイムが0秒266と出遅れてしまう。

 伊東はこの時のスタートを何も覚えていない。「60~70mでフレデリクスに抜かれてフッと我に返ったが、そこからはストライドは抑えがきかなくて、直線に入ってからも力んで顔が横を向いてしまった」。それでも追い風0.1mでタイムは2次予選より良い20秒45と、勝負する走りはできていた。全体では10番目のタイムだったが、もし追い風0.3mだった第1組に入っていれば、4位で決勝進出を果たせていた記録だった。

「夜、寝るころになって『決勝に残りたかったな。もったいなかったな』という気持ちになってきた。マイケル・ジョンソン(アメリカ)が19秒32の世界記録を出した決勝を見て、『あそこに自分もいたかったな』と。1次予選の走りを100%とするなら、準決勝は40~50%の出来。それでも20秒45で走れて4位と0秒13差だったから、1次予選のような走りができていれば決勝まで行けたと思う」

 朝原と伊東は、ともに1次予選と2次予選では余裕を持って走り、準決勝は黒人選手の中に唯一のアジア人としてスタートラインに立った。その姿は感動的だった。日本人でも短距離で戦える可能性を、彼らは見せてくれたのだ。

 アトランタ五輪で伊東は、予選を通過した4×400mリレーにも準決勝から出場。4走を務めた準決勝では、チーム内最速の44秒74のラップライムで3位になった。決勝は2走を44秒86で走り、日本史上最高の5位入賞。さらに、3分00秒76のタイムでアジア記録樹立にも貢献した。

 その後、98年アジア大会100mで10秒00のアジア新を出して、日本人9秒台への可能性へ前進すると、00年シドニー五輪では100mと200mで準決勝まで進出。4×100mリレーでも2走で6位入賞と、9日間で9本のレースを走る日本男子短距離の大黒柱役を果たした。

 朝原はアトランタ五輪の翌年に、10秒08の当時の日本記録に到達。だが、世界選手権では決勝進出を狙ったものの、太腿に違和感が出て実現できなかった。99年に足を痛めたあとは100mに専念し、シドニー五輪はリレーで出場。01年には自己記録の10秒02をマークした。その後は、末續慎吾とともに日本男子リレーの主軸となって、04年アテネ五輪と08年北京五輪に出場した。

 2人は個人でも世界に挑戦できるという現実を見せたにとどまらず、4×100mリレーでも可能性を示した。のちに03年世界選手権200mで銅メダルを獲得した末續慎吾は、初出場だった00年シドニー五輪で、伊東に「4継はメダルを狙える」と言われたという。残念ながら決勝では3走の末續が50m付近で太腿を肉離れしたため6位だったが、可能性は大きかった。

 その後、日本は翌年の世界選手権から4×100mリレー決勝の常連となり、08年北京五輪で銅メダルを獲得(17年にジャマイカが失格となったため、銀メダルに繰り上げ)。伊東と朝原の2人が、今の日本男子短距離躍進の礎を築いたのだ。