屈辱を糧に。 と、いうことを安易にしばしば使う。 これに当てはめれば、履正社はセンバツで星稜の奥川恭伸(3年)に散発3安打に封じられ、17奪三振を喫した。この屈辱を糧に履正社はその時を待ち望んだ。それが夏、最高の舞台というシチュエーション…

 屈辱を糧に。

 と、いうことを安易にしばしば使う。

 これに当てはめれば、履正社はセンバツで星稜の奥川恭伸(3年)に散発3安打に封じられ、17奪三振を喫した。この屈辱を糧に履正社はその時を待ち望んだ。それが夏、最高の舞台というシチュエーションで巡ってきた。

 積極性と粘り強さ。

 令和の最初の夏の決勝戦。履正社にはこの二つが備わっていた。

【写真提供:共同通信】大阪の履正社が初優勝 星稜を下して初優勝し、よろこぶ履正社ナイン=甲子園

「このチームがここまで波に乗れているのは桃谷(惟吹・3年)が大きいんちゃいますかね。士気が上がる」と岡田龍生監督が言う。

 星稜の林和成監督も「桃谷君はいい働きをしている。上位の小深田、井上君でかえすパターン。それだけにやはり桃谷君を注意したい」と言っていたし、奥川本人もゲーム前に「ポイントは桃谷君」と口にした。

 準決勝までの5試合、初回の打席で、ヒットを打って出塁。チームを勢いづかせてきた。決勝も一つの焦点はそこにあった。

 初球の149キロのストレートを打って強い当たりのショートゴロ。結果はアウトになった。

「抑えられれば、履正社にいつもと違うと、違和感を与えられる」と山瀬慎之助捕手(3年)がゲーム前に言ったように、流れを持ってこれる、と思ったに違いない。

 2打席目は、やはり初球のスライダーを打った。これもショートゴロだった。2打席凡退だったが桃谷は役割を果たした、と胸を張って言う。

「奥川君に対しても初球からどんどん振る、自分のスタイルを貫くことができた」
(ちなみに3打席目は初球をセンター前に、4打席目は4球目をレフト前ヒットを放った。)

「うちの持ち味は積極性。桃谷がそれを表現してくれている」と岡田監督は言ってきた。

 アウトにはなったが、桃谷の積極性は4番の井上広大(3年)に生かされたのではないだろうか。

 井上は4番を外されて悔しい日々があったと言う。

「初球から振っていかない、とコーチに言われて、6番に降格しました。お前は4番を打たなあかんねん、と言われて奮起しました」

 苦しい時期を乗り越えて、この大会は最終的には6試合で10安打、3ホームラン。打点の14は両チームでもダントツになった。

 二死から2番、池田凛(2年)。ファールを3球含めて8球を投げさせ、フルカウントからを四球を得る。3番の小深田大地(2年)にも奥川には滅多にない、連続フォアボールを与えた。

 一、二塁で井上の第2打席だ。奥川の失投を見逃さなかった。117キロ、高めに浮いたスライダーをバックスクリーン横に叩き込んだ。逆転の3ランホームランを打って、ファーストベースを回りながら右手を突き上げた。

 林監督は「抜けたスライダー。打った井上君を褒めたい」と言った。

 先制したのは星稜で2回裏、安打で出た内山壮真(2年)をバントで送り、7番の岡田大響(3年)のツーベースで返した。そして履正社がすぐに逆転したのだ。

 中盤は奥川が毎回走者を出しながら要所を締め、星稜が押していた。

 そして、7回裏に履正社の先発、清水大成(3年)の疲れが見え、二つの四球を絡めて、山瀬のスリーベース、3番、知田爽汰(2年)のヒットで3対3の同点に追いつく。

 次の8回表、今度は履正社の粘り強さの部分がでる。

 先頭の5番、内倉一冴(3年)は2ストライクと追い込まれるが、ファールで粘って9球目を右中間にツーベースを放つ。

「追い込まれたら全部振るぐらいの気持ちでいました。今日はスライダー、チェンジアップにも反応できた。センバツでは3打数3三振で、今日は自分の成長を実感しました」

 バントの後、7番のキャプテン、野口海音(3年)が2球目の151キロのストレートをセンター前にクリーンヒット。1点を勝ち越す。8番の野上聖喜(3年)がバントで再び送って、9番、リリーフしていた岩崎峻典(2年)が初球をレフト前に。野口が返って、2点をリードした。

 9回裏、星稜も2本のヒットで粘ったが、併殺でゲームセット。

 奥川は体が重そうだった。智弁和歌山戦、53球(延長14回)を数えた150キロ台だが明らかに少ない。最後のバッター、内倉を151キロでショートフライに打ち取るが、150キロ台は17球にとどまった。

 ゲーム後のインタビューで言っている。

「見てもらって、分かると思いますが、調子は良くはなかったです。監督にゲームの途中で〝ボールがいかない〟と言いました。初回から、向こうのバッターはストレートを当ててきたので、いつか捉えられてしまうと思っていた。踏ん張りきれなかった」

 林監督は「石川大会からの疲れもあったんでしょう。変化球のコントロールが良くなかった。でも、最後まで粘ってマウンドを守ってくれた」と労った。

 履正社打線は奥川のスライダーを見極めた。野口が言う。

「低めのスライダーは空振りも取られますが、目付けを高くして見極めたい」

 履正社はセンバツの初日の第3試合。奥川に見せ場なく破れた。桃谷は3打数2三振、内倉は3打数3三振だった。この屈辱から始まったのだ。冬の間に強化した筋力トレーニングは春以降も続けた。

 履正社の校名の由来、「履正不畏(りせいふい)」。自ら正しいと信ずることを、何ものにも畏れず勇気と責任を持って実践すること。それは積極性を忘れず、打倒奥川に邁進したことだった。

 センバツ後、コーチが岡田監督に意見を求めたと言う。「今やっている指導を見直しましょうか」。岡田監督は「筋力トレーニングなども間違っていない。このまま、行こう」と、信じることを実践した。

 岡田監督は期間中、再三、言った。

「春に奥川くんと対戦して、選手は肌で感じたと思う。奥川君に振りまけないスピード、パワーをつけてきた」

 そして霞ヶ浦の鈴木寛人、津田学園の前佑囲斗、関東一の谷幸之助ら今大会の右の好投手を次々と打ってきた。

「うちは奥川くんに強くしてもらった。やっとその奥川くんと試合をさせてもらうところまで来た」

 この言葉に岡田監督と履正社ナインの思いが詰まっていた。そして、有終を果たす。

 こういうことこそ、屈辱を糧にした、ということなのだ。

 中身の詰まった名勝負だった。

文・清水岳志