2002年、ついに夢だった高校野球の監督となった上原は、中部商を率いていきなり夏の沖縄大会で決勝へ勝ち進んだ。しかも相…

 2002年、ついに夢だった高校野球の監督となった上原は、中部商を率いていきなり夏の沖縄大会で決勝へ勝ち進んだ。しかも相手は、沖縄水産だった。栽弘義監督はさぞたまげたことだろう。何しろ、一から野球を教えた中学の監督と、甲子園を懸けた舞台で戦うことになったのだから--上原はこう言った。

「高校の監督になって3カ月で決勝まで勝ち進んで、栽先生と当たっちゃったんです。相手ベンチに栽先生がいるんですよ。で、こっちに僕。大ベテランとペーペーが夏の甲子園を懸けて戦えば、沖縄中の下馬評は999対1ですよ。ところが試合をしたら4-1で勝った。もう、嬉しいやら申し訳ないやらで、試合後、閉会式で栽先生と並んだとき、帽子を取って頭を下げて『お世話になりました、ありがとうございました』と言いました。栽先生は『何かあったら相談に乗るからね』と言ってくれて……そりゃ、栽先生は悔しかったと思いますよ。でも栽先生の顔は、同郷の後輩に負けて、これから頑張れよ、と言ってくれているようにも見えました」



中部商、糸満高校時代に計4度、甲子園に出場した上原忠監督

 子どもの頃、栽弘義に憧れ、高校野球の監督になって甲子園へ行くという夢を、上原はいきなり叶えた。中部商の監督となり、夏の甲子園に出場。その2年後の2004年夏、中部商はまたも沖縄水産を破って、2度目の甲子園出場を勝ち取った。

「2度目の決勝のスコアも、また4-1ですよ。でも初めてのときとは違って、2度目は僕のほうに栽先生を見る余裕がありました。あ、ここでピッチャーを代えたいのに栽先生は迷ってるな、とか……あの時、ウチは2番手を先発させて、コイツ、ヤバいなというときに迷わずエースを送り出せたんですけど、栽先生はエースを先発させたから2番手の2年生に代え切れなかったと思うんです。エースを下ろすと試合の流れが変わりますし、そこで迷う栽先生の顔が見えた……初めての時にはそんな余裕はありませんでしたね」

 しかも上原は中部商の監督を8年務めたあと、母校の糸満へ移り、そこでも2度、甲子園出場を果たす。こと沖縄県内では抜きん出た勝率を誇り、甲子園に出たことのなかった中部商、糸満をあっという間に甲子園へ導いた手腕。その原点は、栽野球をベースに作り上げた上原野球があったからだった。

「思えば、中学野球から入ったことが大きかったのかもしれません。軟式の戦術というのがありましてね。三塁ランナーを走らせて打つとか、セーフティ・スクイズも僕が高校の監督になった頃にはまだ一般的ではなかった。そういう機動力を使った、オーソドックスじゃない野球を沖縄の高校野球では僕がいち早く実践したということはあったと思います。それに加えて、甲子園へ行くために必要な”何か”があったから、結果が出せたんでしょう。その”何か”というのは、僕はニーズに合った方法をその学校、学校で仕組んでいくことだと思っています。子どもたちが何を望んでいるのか、親御さんは何を期待しているのか。それから地域性を考える。

 宜野湾における中部商の存在と、糸満における糸満高校の存在は、まったく違います。野球を中心に考えることができた中部商を甲子園へ連れていくやり方は、大学へ進学を希望する選手が多い糸満では通用しません。だから糸満では子どもたちに自分の意志で野球に取り組ませるために、ミーティングを重視しました。そこで彼らに語り掛けて、やるべきことを理解してもらって、やる気に火をつける。自らの意志で出した成果に対しては大袈裟なくらい評価して、やると言ったのにやらなかったら烈火のごとく叱り飛ばす。限られた時間の中で野球と勉強のけじめをつけさせる。それが糸満ではうまくいきました。だから、沖縄水産には沖縄水産なりのやり方があるんだと考えています」

2007年、栽監督が65歳で急逝し、求心力を失った沖縄水産は、弱体化した。2016年、上原が沖縄水産に赴任してきた時、部員は20人。3年生が7人、2年生が13人、新入生はまだゼロ。外野の芝は伸び放題でボコボコ、内野の土はひび割れている。

 聞けば人数が少なくて整備が大変だからとメイングラウンドは使わず、サブグラウンドでこぢんまりと練習をしていたのだという。マシンもL字のネットもない。キャッチャー防具は1セットだけで、キャッチャーミットは軟式用。かつての強豪が甲子園から遠ざかること20年近く、栽監督が急逝してから約10年が経っていた。上原がそんな現実を目の当たりにしたのは、監督として糸満を春の県大会で優勝へ導き、選手たちの手で歓喜の胴上げされた、その翌日のことだ。

「中部商で監督をやって、甲子園に行かせてもらって、母校(糸満)の監督としても甲子園へ出るという夢を叶えて、『さあ、次は』と考えたとき、なぜ自分は高校野球の指導者をしているんだろうという原点に立ち返ったんです。僕も定年間近ですし、最後の務めはとなったら、これはもう、お世話になった栽先生に対する恩返ししかありません。

 栽先生のところへ挨拶に出向いたとき、『そこで見ておけ』と言われなかったら今の僕はないんです。じゃあ、天国にいる栽先生にどうやって恩返しをすればいいのかと考えたら、沖縄水産を強くすることしかないと思いました。自分にできるかどうかはわかりませんが、あの沖水のユニフォームを着た選手たちを、もう一度、甲子園でプレーさせることが、何よりも天国の栽先生に喜んでもらえるんじゃないかなと……」

 沖縄水産の監督となって3年目の2018年秋、上原は県大会で興南を破ってチームを優勝へ導いた。地元は『古豪復活』と大騒ぎだったが、九州大会は初戦で敗れ、センバツへの出場は成らなかった。

 それでも春も県大会で準優勝の沖縄水産は、この夏、本命の興南を倒す一番手の対抗馬に挙げられている。上原が久米島から連れてきたエースの國吉吹(いぶき)は去年の秋、沖縄尚学を相手にノーヒット・ノーランを達成した、プロも注目する右腕だ。ともに勝ち進めば、興南とは決勝でぶつかることになる。

「興南を倒すのは至難の業だと思いますが、宮城(大弥/投手)くんを打ち崩すためにずっとあたためている戦い方はありますよ。こうすれば勝てる、お前たちにもできると思わせるために、ゆっくり語りかけていこうと思っています。

 僕自身も、我喜屋(優/興南の監督)さんのうしろを追い掛けても追いつけないということはわかっていますから、栽先生のやり方はマネしましたけど、我喜屋さんのやり方は一切、マネしません。山の上の椅子は1つなんです。甲子園という椅子は1つだけで、つまり僕らは椅子取りゲームをしている。山に登る道はいっぱいあって、我喜屋さんは我喜屋さんのルートで山を登っているんだったら、僕は我喜屋さんとはまったく違う道を登って、なんとかあの人よりも先にその椅子に座ってやろうと思っています」

 大胆細心、一心不乱。

 栽監督が大事にしてきた言葉は普遍的な価値観だとして今の選手たちに伝える一方、今や古豪と呼ばれる沖縄水産の伝統に縛られるつもりはない。あくまでも上原忠のノウハウを大事にしながら、”新生・沖水”として甲子園を目指す。それが栽弘義という野球人への、上原流の恩返しになるのだと信じて--。

(終わり)