レースには、それに見合う相応の報酬というものがある。 では、ある種のレーサーたちは、なぜマン島TTレースに魅入られるのだろうか。賞金はごくわずかなのに、リスクがとてつもなく大きく、しかも難易度もずば抜けて高いというのに。カワサキを駆っ…

 レースには、それに見合う相応の報酬というものがある。

 では、ある種のレーサーたちは、なぜマン島TTレースに魅入られるのだろうか。賞金はごくわずかなのに、リスクがとてつもなく大きく、しかも難易度もずば抜けて高いというのに。



カワサキを駆って今年のマン島TTシニアクラスを制したディーン・ハリソン

 マン島TTレースには、オートバイレースの魅力が凝縮されている。島内の公道を封鎖して行なうこのレースは、内なる敵に向き合って打ち勝つ、という戦いでもあるのだ。もういいじゃないか、と自分自身のなかで声がする――生きながらえるためにスピードを落とすんだ、と。

 だが、最高のライダーたちの頭のなかには、生きながらえる、という言葉がない。彼らが考えるのは、限界まで攻めるという、ただその事のみだ。

 公道レースで生活ができるライダーの数は、ごくわずかだ。勝利の美酒を味わえるのは、さらにそのうちのひと握りにすぎない。いったい、何が彼らをそこまで駆り立てるのだろう?

「正直言って、これが合法なレースだとは信じられないよ」と話すのはリー・ジョンストン。今年最初の決勝、スーパースポーツクラスのレース1で優勝した選手だ。「でも、これは何ものにも代えがたいんだ。ちょっと他とは比べようがないね」

 そこに、議論の余地はない。200馬力のスーパーバイクで町や村を駆け抜け、住宅の垣根の脇で鈴なりになったファンが居並ぶ前を、猛スピードで通過して丘陵地へと向かう。このスリルをいったん知ってしまった者には、どんなレースも、もはや生ぬるく感じてしまうのだ。

 時速330kmで走るということは、1秒間に100mの距離を移動するということだ。ほんのわずかのミスが、文字どおり命取りになる。これは危険と栄光が背中合わせの、究極の戦いだ。

 もちろん、ライダーたちは命を捨てて走っているわけではない。彼らは生を満喫するために走っている。彼らは毎年、アイリッシュ海に浮かぶこの小さな島で、その達成感を味わっているのだ。

 2019年のマン島TTレースは、100回目の記念大会となった。2度の世界大戦等による中断を除き、1907年から現在に至るまで、連綿と続く長い歴史がこのレースにはある。

「このレースが好きなライダーもいれば、そうじゃないライダーもいる」そう話すのは、何度もマン島TT参戦経験を持つデイヴィッド・ジョンソンだ。

「初めてこのレースに来た時から気に入ったよ。私はオーストラリア出身で世界チャンピオンになるのが夢だったけど、チャンスに恵まれなかった。でも、いいバイクにさえ乗れれば、トップを走れる自信はあった。そこで、BSB(全英選手権)に参戦しようと思って、マン島に移り住んだんだ。

 いざ、ここへやって来てみると、他のレースはすべて色あせて見えたよ。TTに参戦しようと決めて、その後に他のレースを走ってみると、まるで面白さを感じないんだ。お仕事で仕方なく走っているような気分だった。

 TTの場合は、たしかに苛酷だけれども、何ものにも代えられない高ぶりがある。これは、他では絶対に得られないものなんだ」

 そんな考えに至ったのは、ジョンソンだけではない。この島へやってきた何人ものライダーたちが、別人のようになって帰ってゆく。

 北アイルランド出身のリー・ジョンストンは偶然、この公道レースに参戦するようになったクチだが、あっという間に虜(とりこ)になった。他のレースで満足できなくなったジョンストンは、サーキットでの走行に面白味を感じられなくなって、やめてしまったのだという。

「レースをするには、それなりの心構えというものが必要になる」と、ジョンストンはその時のことを振り返る。

「僕が公道レースに参戦したのはほんの偶然だけど、一気に魅了されたよ。その後にサーキットのレースへ戻ったんだけど、10周ほど走ると、『つまんねぇな』と思ってしまったんだ。もはや、なんの面白味も感じない。

 今は公道レースの虜だよ。最高だね。公道レースに出会えた僕は幸せ者だ。だって、これを味わえる人はそう多くないんだから。公道レース以外じゃもう満足できない。僕が今、走りたいと思うのは、公道レースだけだね」

 このレースの魅力に取り憑かれたのは、ライダーたちだけではない。バイクメーカーもこの100年の間、自分たちの技術が他より優れていることを証明すべく、覇を競いあってきた。

 その象徴的な例が、ホンダだ。ホンダにとって、マン島TTに参戦して勝利することは、戦後日本の復興と自分たちの技術力を証明することでもあったのだ。

 本田宗一郎がマン島TTへの参戦、すなわち世界グランプリへの挑戦を表明したのは1954年。

「(第二次大戦の敗戦により)この惨憺たる国土とした事は若いこれからの人に何としても申訳なく思いますが、ここに皆様の御教導を得まして、日本の機械工業の眠っていなかった事を全世界に誇示出来ますなれば、そしてこれを機会に自動車工業の輸出が始まりますなれば、若人に幾らかの明るい希望を持って頂く事が出来、技術者としての私の幸これに過ぎるものは御座居ません」(原文ママ)と記した出場宣言の檄文を、本田宗一郎はこう締めくくっている。「私の宿意と決心を申し上げこのTTレースに出場、優勝するため精魂を傾けて創意工夫いたしますことをここに宣誓いたします」

 ホンダがついに参戦を実現させたのは1959年。そして、その3年後に初優勝を達成した。それ以来、二輪ロードレースの世界では欧州メーカーの優勢に終止符が打たれ、日本企業の時代が到来する。マン島でホンダのマシンは、現在まで183勝を達成している。

 ホンダのみに限らず、スズキとカワサキも、この公道レースには足跡を残している。

 マン島TTは、今年で70周年を迎えるMotoGPが、その最初の年に最初のレースとして開催された地だが、カワサキがグランプリの最高峰クラスで優勝を飾ったのは、1975年のシーズン第5戦・マン島TT(優勝者=ミック・グラント)が最後である。

 また、スズキにとっては、このTTが大きな節目になった。1962年にはエルンスト・デグナーが50ccクラスで優勝。1963年には伊藤光夫が日本人として初めて、そして唯一の優勝を飾った。

それ以来、2ストロークや4ストロークのさまざまなエンジンがこの公道コースを走り、多種多様なクラスとレギュレーションが設定されてきた。近年でもっとも大きな技術仕様の導入は、ゼロエミッションのTTゼロクラス創設だろう。今年で10年目を迎える、この電動バイクによるカテゴリーをリードしているのもまた、日本製のブランドだ。

 無限が製作する電動バイク「神電」は、2012年にマン島初参戦。挑戦開始後3年目の2014年に初優勝を飾ると、以後は現在に至るまで連勝街道を走り続けている。現在の本田技研工業は、企業として公式にマン島TTレースへの参戦を行なっていないが、本田宗一郎が檄文に示した熱い魂は、今もこの無限・神電に受け継がれているといっていいだろう。

 TTゼロクラスのラップレコードを持つ無限・神電だが、コース平均速度で見るかぎり、今のところはまだ時速122マイル(196km)に満たない。だが、今年はMotoGPのサポートレースとして、MotoEという電動バイクのカテゴリーもスタートする。やがて電動バイク競技は、隆盛を極めるようになるだろう。ホンダの遺伝子はこの分野ですでに先鞭をつけ、大きな存在感を発揮していることは間違いない。

 スピードの面からも、マン島TTレースを見てみよう。史上最初のレースでは、最速記録は時速40マイル(64km)をわずかに上回る程度にすぎなかった。だが、その速度は年々上昇し続け、時速50マイル(80km)にいつ到達するのか、誰が時速60マイル(96km)を上回るのか、ということも大きな関心の的になっていった。

 最高峰のシニアクラスで平均時速が100マイル(160km)の壁を越えたのは、50年の節目を迎えた1957年のことだ。この当時、練習走行は午前5時にスタートしていたので、選手たちは走行中に牛乳配達と鉢合わせる危険性もあった、という冗談交じりの伝説も残っている。それはともかくとして、この100マイル越えの記録を達成した人物は、ボブ・マッキンタイアである。

 その19年後、1976年にスズキのマシンを駆るジョン・ウィリアムスが平均時速110マイル(177km)に到達した。また、この年にはジョイ・ダンロップもマン島デビューを飾っている。北アイルランド出身のこの青年は、のちにマン島で26勝を達成し、史上もっとも偉大なライダーのひとりと言われるほどの選手になる。

 そしてこの年を最後に、マン島TTはグランプリカレンダーから外されるようになった。コースの安全性を憂慮する選手たちの要求が通った格好だ。翌年以降、世界のトップライダーたちにとって、マン島のコースを走ることは契約上課せられた義務ではなく、自らそこに挑みたいと思うかどうか、という意思の問題になったわけだ。

 世界グランプリの年間カレンダーから外れても、マン島TTはその魅力を失わなかった。WGPを引退していたマイク・ヘイルウッドが1978年にドゥカティのマシンで復帰を果たし、優勝を飾った一件は、世界的にも注目を集めた。マン島TTのシニアクラスで優勝することは、やはり大きなニュースと見なされていたのである。

 1980年代のTTは、ホンダとジョイ・ダンロップの時代だった、と言っていいだろう。このコンビは毎年のように勝利を重ね、フォーミュラワンクラスでの6連勝という輝かしい記録も達成した。現在もなお、ダンロップの名は人々に愛されている(訳注:ダンロップは2000年にエストニアの公道レースで逝去)。

 1980年代最後の年には、スティーヴ・ヒスロップが平均時速120マイル(193km)の壁を破った。130マイル(209km)に到達したのは、2007年のジョン・マクギネス。平均時速は、約20年ごとに10マイル更新されている計算になるが、その間隔は短縮傾向にある。この数字がいったいどこまで伸びるのかは知るよしもないが、今のところ1周当たりの最高平均時速はピーター・ヒックマンが記録した時速135マイル(217km)である。

 ヒックマンの活躍はめざましく、今年は3カテゴリーのレース(スーパーバイク、スーパーストック、スーパースポーツ)で優勝を飾った。彼と互角に戦っているのはディーン・ハリソンのみで、この両名がレースのハードルを上げているような状態だ。「ヒッキー・ハリソン直接対決」という新聞の見出しは、ここ数年の定番になっている。今年もまた3勝を挙げたヒックマン有利とも見えたが、メインイベントのシニアクラスで勝利をもぎ取ったのは、カワサキを駆るハリソンのほうだった。

 今年のマン島は悪天候によるレース進行の順延が続き、最終日にはいくつものクラスの決勝が一気に行なわれたが、そこで勝利を収めて世界中のファンを感嘆させたのは、勇を鼓してリスクを賭け、自らの手で栄光を掴み取りにいったライダーたちだった。

「なぜ走るのかって? 走れるからに決まってるじゃないか」

 そう言い残して、男たちは世界最高のサーキットへと走り抜けていった。