平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン 
【2004年8月 アテネオリンピック 北島康介】

 歓喜、驚愕、落胆、失意、怒号、狂乱、感動……。いいことも悪いことも、さまざまな出来事があった平成のスポーツシーン。現場で取材をしたライター、ジャーナリストが、いまも強烈に印象に残っている名場面を振り返る--。

 2004年アテネ五輪の100m平泳ぎで優勝した北島康介--。彼が、テレビカメラの前で発した第一声は「ちょー気持ちいい」というセリフだった。しかし、そのすぐ後の記者の囲み取材では一変、ボロボロと涙を流した。その姿に、彼の背負っていたプレッシャーの大きさを感じずにはいられなかった。それほどまでに苦しくつらい戦いだったからこそ、明るさを持った言葉が、口を突いて出たのだろう。



100m平泳ぎで優勝した瞬間、喜びを爆発させた北島康介

 高校3年生だった2000年シドニー大会で五輪初出場を果たし、100mで4位になった北島。その後、平井伯昌コーチとともに歩み始め、04年アテネ五輪の金メダル獲得までの道のりは、順調そのものだった。

 シドニー五輪の翌年、01年の世界選手権福岡大会では、水中で大きく伸びる泳ぎで、200mで銅メダルを獲得。その泳ぎをさらに進化させた02年には、8月のパンパシフィック選手権前に肘を痛めるアクシデントに見舞われたものの、100mで優勝。その後の下半身強化が結実して、10月のアジア大会200mではマイク・バローマン(アメリカ)が10年間保持していた世界記録を更新。2分10秒の壁を初めて破る2分09秒97を出し、「今年は世界記録を作る」という目標をクリアした。

 03年の世界選手権バルセロナ大会では「世界の舞台で、ライバルたちに康介の存在感を示してプレッシャーを与えておきたい」という平井コーチの思惑どおり、100mは59秒78の世界記録で優勝。さらに200mでも6月にディミトリー・コモルニコフ(ロシア)に塗り替えられていた世界記録を更新する2分09秒42で2冠を獲得した。

 想定していた構想をすべて成し遂げて臨んだアテネ五輪シーズンだったが、そこからは試練が待ち受けていた。1月には、世界に出て刺激を受けようと短水路のW杯を転戦したが、そこで泳ぎを少し崩してしまった。さらに、帰国してから肘に痛みが出るという負の連鎖。

 そんな状況ながらも、代表選考会だった4月の日本選手権では、50mを含めて3年連続3冠を獲得。不安は払拭できたかに思えた。

 しかし、5月のヨーロッパ高地合宿を経て出場したヨーロッパグランプリでは、またしても泳ぎが崩れてしまった。続くローマ大会200mでは、長水路として01年世界選手権以来の敗戦を喫した。

 その後も苦難は続く。帰国後には左ひざにガングリオン(腫瘤)ができてしまい、治療でそれを潰したため、高地合宿に出発する6月末の時点では平泳ぎを泳げない状態になっていた。

 そしてスペインのグラナダ合宿中、調子が上がらない、北島の元に衝撃的なニュースが届いた。7月9日の早朝、全米選手権でブレンダン・ハンセンが100mで59秒30の世界記録を出したと連絡があったのだ。その3日後には、ハンセンは200mでも2分09秒04の世界記録を出した。

 その報せで北島に気合いが入った。それでも、平井コーチが本当に戦えるようになったと思えたのは、アテネ五輪の10日前。最後の調整合宿を行なっていたイタリアのサルディニアに入ってからだった。

「サルディニアに入ってからの康介は、日に日に自信に満ちた顔になっていった」(平井コーチ)

 メディアにも公開した練習のタイムで、その自信が本物であることを証明していた。それでも、平井コーチが危惧する部分はあった。もし、ハンセンが全米で出した59秒30と同レベルのタイムを本番で出して来た時に、はたして北島が対抗できるかということだった。それは困難なことにも思えた。そのために平井コーチは、「予選からハンセンにプレッシャーを与える泳ぎをする」という作戦をとった。

 競泳初日の8月14日、昼に行なわれた100m平泳ぎ予選。北島は滑らかに力強い泳ぎで、五輪新となる1分00秒03を出した。対してハンセンは1分00秒25だった。

 北島はのちにこう振り返っている。

「練習で調子がよくても、本当の体調は予選を泳いでみないとわからない。練習で自信があってもレースで速く泳げなかったら、そんな自信は一瞬で吹き飛んでしまう。だから、予選の前は緊張していたけれど、タイムを見て正直ほっとしたというか、初めて戦えると思った。

 もし予選でハンセンが59秒台を出していたら、決勝で勝てなかったかもしれないし、結果的に僕は余裕を持てた。今思えば、僕があそこで彼にプレッシャーをかけていたのかもしれない」

 夜の準決勝はハンセンが1分00秒01とタイムを上げたのに対し、北島は1分00秒27とタイムを落とした。それでも平井は楽観視していた。「康介は後半ミスをしてタイムを落としましたが、ハンセンの前半の泳ぎにはちょっと焦りがあった」

 15日の決勝を前に、平井コーチは北島にこう言った。

「スタートしてからの25mとターンしてからの15mは、絶対にこっち(北島)の方が速いから、慌てないでいこう」

 予選と準決勝のレースを分析しても、ターンしてから15mの泳ぎは北島の方が0秒3~4秒速いというデータが出ていた。もし、ハンセンが前半の50mを全米選手権と同じ27秒台で入っても、75m付近では並べると考え、北島と平井コーチはラスト25mの泳ぎを入念にチェックした。

 午後8時過ぎの決勝。北島がハンセンを少しリードして浮き上がり、そのまま25mを通過した時に、平井コーチは心の中で「勝った」と思った。ハンセンの泳ぎは明らかに硬く、50m折り返しはトップながらも、全米の27秒台には程遠い28秒22で、北島との差は0秒04しかなかった。

 ターンして浮き上がると北島が頭ひとつリードした状態。北島は、「50mをターンして浮き上がった時には、前にハンセンがいなかったので勝ったと思い、そこからは無心に泳いだ」という。ゴールのタッチもピタリと合わせて1分00秒08でゴール。ハンセンとの差を0秒17にしていた。

 平井は「準決勝でタイムは落ちたが、振り返ってみれば康介が予選でしっかり泳いだことがハンセンにボディブローのように効いていたと思います。決勝だけではなく3本のレースすべてが勝負だと思ってやったのがよかった」と話した。

 最初の勝負を制して自信を取り戻した北島を、200mで阻む者はいなかった。18日の決勝ではスタート後の浮き上がりから前に出てトップで50mを折り返すと、そのままトップを維持して2分09秒44でゴールして2冠獲得を果たした。後半に追い上げて2位になったダニエル・ギュルタ(ハンガリー)に1秒36の大差をつける圧勝だった。150mまで北島に食らいついていたハンセンは、最後に差されて2分10秒87で3位だった。

 すべての競技が終わった後で、北島はこう話した。

「人前で涙を流したのは初めてでした。やはりプレッシャーはあったし、五輪という緊張感から解き放たれた瞬間だったと思います。体調が悪かったり調子の波が激しかったのは自分自身が一番わかっていたし、日本選手権前からメンタルの面で照準が合わなかったり、誤差みたいなものが生じていた。でもそれを気にしたら自分が不安でしょうがなくなると思い、そうなってしまう自分が怖かった。五輪という特別な大会だからこそ、一度自分が弱音のような言葉を口から出してしまったら、僕はそこで負けるんじゃないかと思っていた……。強がっていた部分も多少あるけど、必ず五輪で金を取るという強い思いだけを、心の中で描くようにしていました」

 世界の水泳界を新たなステージへと引き上げた北島は、2016年に現役を引退するまで、世界のトップをひた走り、新たな歴史を築き続けた。