レジェンドによるRWC回顧録① 2015年大会 五郎丸歩(前編)

 ラグビーワールドカップ(RWC)日本大会の開幕(9月20日)まであと4カ月となった。

 「温故知新」である。日本代表は1987年大会から前回2015年のイングランド大会まで全8回いずれにも出場してきた。『RWC回顧録』と題して、各大会の”レジェンド”に当時の日本代表を振り返ってもらった。

 初回は、「日本ラグビーの歴史を変えた」と言われた2015年イングランド大会。まだ記憶に新しいだろう。まずは、日本ラグビーのポイントゲッターとして代表をけん引し、ワールドカップベストフィフティーンにも選ばれた五郎丸歩(ヤマハ発動機)である。あの感動を再び――。



2015年W杯当時、ボールを蹴るまでのルーティンが話題となった五郎丸歩

 4月某日。葉山マリーナそばにある海沿いの白色の地中海風レストラン。遠くに雪をかぶった富士山がそびえ、目の前には群青色の太平洋が広がっている。陽ざしもまばゆい。逗子警察署の「一日署長」を終え、五郎丸はそこに駆けつけてくれた。

 人気者は相変わらず忙しい。その前日にはNHKのラグビーワールドカップのナビゲーター就任の記者発表があった。試合の中継番組に出演するということは選手としては出場しないことを意味する。「選手としてピッチに立つことは?」と唐突に聞けば、33歳は短く、「ない」と言い切った。静かに続ける。

「15年(RWC)以降、まったくその気はありませんでした。戦う前から、(代表引退を)決めていました。これが最後と。だから、海外にも行ったし、ラグビー以外の仕事もたくさん受けて。それが自分の役目かなと思っていたんです」

 ちょっと驚く。初めて知った。でも、あの結果を出した後、気持ちが変わることはなかったのだろうか。そう問えば、「なかったですね」とつぶやいた。そこまでラグビー中心の生活を送っていた。結婚して、子どもができた。その長男とのエピソード。

「上の子が3歳の時です。家の近くの公園に行って、子どもと一緒に遊んでいたんです。僕がカニをパッと素手で捕まえたら、生まれて初めて、”パパすごいね”って言ったんです。ラグビーではなくて、すごく身近なことに”すごい”と感じている。そのひと言が、僕の中では大きくて…。なんか、父親らしいことをしなくちゃいけないなって」

 その瞬間、人生観が少し、変わった。

「代表は引退するけど、(ヤマハでプレーしながら)メディアへの露出面に関してはできるだけやらせてもらって、あとは子どもたちへのラグビーの普及(活動)などをしつつ、家族を守っていきたいなと切り替えができましたね」

――さて、2015年のイングランド大会のことです。真っ先に思い出すシーンは何でしょうか。

「(南アフリカに)勝った瞬間よりも、ホテルに帰って、自分の部屋にいる時、スマホを見るじゃないですか。その時に、世界の反応みたいのが、結構、バンバンあって…。フェイスブックとかユーチューブとかツイッターとかに(ニュースが)上がっていて。なんか、すごいことを起こしたなって、少しずつ実感がわいてきた時ですかね。ピッチにいた時はただ”勝った~”みたいな、ほわっとした感じでしたけど、あとからそういうものってきますよね」

――開幕カードで、優勝候補の南アフリカ代表に34-32で逆転勝ちを収めた日のことですよね。英国ブライトン、日本代表は海沿いのホテルに泊まっていました。どんな喜びだったのでしょうか。

「自分たちの目標というものが、やっぱり、ラグビー界を盛り上げて、2019年ワールドカップにつなげたいというのがあったんです。日本のラグビーの地位をもっと上げて、次の選手たちにバトンタッチしたいというのが強かった。それを超えて、世界に衝撃を与えたわけですから。ブライトンのビーチのパブリックビューイングでも(たくさんの人が)騒いでいる光景を見て、すごくうれしかったですね」

――その試合、語り継がれる場面となった最後のスクラムですが。29-32の場面、ペナルティーをもらって、同点PG(ペナルティゴール)狙いではなく、日本はスクラムを選択しました。逆転のトライ狙いでした。満員(約3万人)の観衆の「ジャパンコール」が会場に響き渡っていました。

「ショット(PG)の選択肢は、僕らにはなかったと思います。バックスもフォワードも。あの時は」

――歴史をつくるためには勝たないといけない、ということですか。

「その言葉が一番正しいと思いますし、やっぱり、ラストまで戦える力というのは4年間でつくり上げてきた自信もありました。とにかく、勝ちにこだわりたかったんです」

――その前、相手は29-29からPGで3点差としました。以前、「その時に勝てるなと実感した」と話をしていましたよね。「仙豆(せんず)をくれて、めちゃくちゃ元気になった」と。

「漫画『ドラゴンボール』に出てくる不思議な豆で、からだが弱った時にひと粒食べるとすごく元気になる豆ですね。あの時、めちゃくちゃ疲れていたけれど、あのPGで、ああ、これはもう”イケるでしょ”って。元気になったんです」

――エネルギーをもらったんですね。

「南アフリカとか、ニュージーランドとか、オーストラリアとか、すごい雲の上の人たちだったのに、そんな人たちが必死に勝ちにきたというか、試合を置きにきたというか、3点差でもいいから勝ちたいという姿勢が逆に僕らに力をくれたような気がします。あの南アフリカがショットを狙って3点かって」

――最後は、WTB(ウイング)のカーン・ヘスケスが左隅に飛び込みました。逆転のトライです。その瞬間は。

「覚えています。ぼくは右端にいたんです。すごく遠くでみんなが抱き合っていて、”やったんだな”って。スタジアムの雰囲気とか、最高でしたね」

――試合後の「ミックスゾーン」と呼ばれる取材エリア。たしか、記者の誰かが「奇跡」という言葉を使ったら、五郎丸さんは「奇跡でも偶然でもない、必然です」と言いました。カッコよかったですね。

「ぼくは3歳からラグビーをやっているので、力の差が確実に出るスポーツがラグビーだとわかっているんです。サッカーみたいに1点決めて守り切る、みたいなことはできません。フィジカルスポーツでコンタクトもある。弱いところを隠せないんです。あのフィジカルが一番強い南アフリカに勝ったということは奇跡であるはずがありません。それまでの準備を含めて、やれることは全部やったんです。僕らは南アフリカの選手が寝ている間、朝早くに起きて練習をやってきたんです。いまだに奇跡、奇跡と言われますけど。まあ、神話っぽくしていたほうが受け継がれるのかなって、最近思いますが」

――ほんと、エディー・ジャパン、ムチャクチャ練習していましたものね。

「そう、やってました。丸一日オフはない。基本、半日しか休みがないんです」

――密度の濃い準備の4年間だったんですね。

「すごく刺激的でした。エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)がすごかったのは、毎年の目標設定が絶妙だったということです。1年目はヨーロッパツアーで、日本がまだ勝利したことがないテストマッチに勝ちましょうって。2年目はウェールズにも、あの時はライオンズ(全英国代表)に何人か参加するので、これくらいトレーニングしたら勝てるよって。なんかこう、頑張らないと手が届かないところに常に目標を設定してくれていたんです。明確に選手たちに落とし込んでくれたし、マッチメイクも絶妙だったなと思います」

――チーム結成当初の目標は。

「最初から世界一目指しますって言われても、選手には響かなかったと思いますけど、2011年のファーストミーティングでは”トップ10に入る”って言ったんです。その時、日本は14位ぐらいだったかな。頑張ったら、イケそうだなって思いました。そして、トップ10に入ったら、すぐに上方修正して、”ベスト8”に行こうって」

――南ア戦のことでもうひとつ。以前、「スポーツの本質という観点では負けてしまった」と言っていましたよね。どういう意味ですか。

「実は試合を終えて、非常に反省した部分があったんです。僕らは南アに勝って、飛び跳ねて喜んでいたんです。でも、南アフリカは悔しかったと思いますけど、スカルク・バーガーが先頭で来て、ニコニコしながら、僕らの勝利を称えてくれたんです。なかなかできないですよね。僕らは試合に勝ったかもしれないけど、スポーツという観点でいけば、負けてしまったのかなって。それ、スポーツの本質ですよね、やっぱり」

(後編につづく)