1992年7月12日にプロ初安打を記録してから、イチローはこれまで日米通算4367本の安打を積み重ねてきた。それは…

 1992年7月12日にプロ初安打を記録してから、イチローはこれまで日米通算4367本の安打を積み重ねてきた。それはどんな状況でも変わることなく準備を続けてきた証でもあるが、なぜこれほど愚直に「次の1本」を追い続けることができたのか。イチローのプロ初安打に立ち会い、今もアメリカで取材を続ける小西慶三氏が2013年12月にweb Sportivaで掲載した記事をあらためて読み返してみたい。



オープン戦から不振が続くイチローだが、アスレチックとの開幕戦でヒットは出るのか?

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メモリアルヒットで綴るイチロー(後編)

【2003年5月16日@コメリカ・パーク】

 試合後の囲み取材でイチローは最後まで仏頂面だった。チームは快勝し、自らはこの日2本目のヒットとなるライト線二塁打でメジャー通算500本目を刻んでいた。詳細な資料が現存せず、354試合目での到達は史上最速かどうか確認できないままだったが、それが記録的なスピードで達成されたのは間違いない。

 それでも彼は、「ひと区切りの数字ではないです。とくに(感想は)ない」とまるで取りつくシマがない。素っ気ない主役と呆気にとられたような報道陣のコントラスト。消化不良ムードのまま短いインタビューは終了した。

 最後まで固い表情には理由があった。「いつでも難しいことに変わりがない」はずの1安打の価値が軽んじられている。釈然としない気持ちが、彼を頑(かたく)なにさせていた。

 この前年、1994年のオリックス時代から続いていた連続首位打者が「8」で途切れた。直後のシーズンオフ、イチローは某大手全国紙のインタビューで「なぜ首位打者を獲れなかったのか?」というニュアンスの質問を受けていた。

2002年の208安打はア・リーグ最多に1本足りない2位、27敬遠はリーグ最多だった。リーグMVPを獲得した2001年に30個だった四球数は68に倍増。新人からの連続200安打以上はメジャー史上7人目だったが、周囲はなぜトップに立てなかったかにフォーカスした。少なくとも彼は、当時の日本国内の反応をマイナスなものとして受け取り、敏感に反応した。

 称賛が欲しかったのではない。すべての人が「なぜ首位打者を獲れなかったのか」と問うているのではないこともわかっていた。しかし苛立ちとも戸惑いともつかない思いが募り、本音となってあふれ出たのではないか。囲み取材の数時間前、デトロイト郊外で遅い昼食をともにした時のことだ。いつものチーズピザとコーラを前にイチローは珍しく強い口調になった。

「去年208本打って『何でもっと打てなかったの』と思われているのに、なぜ今度は500本に意味を求めようとするのですか。そこに矛盾はないですか。みんなが思っているように僕も思えばいいんですか」

 オリックス時代の中盤以降、数字を積み重ねるたびに周囲は驚かなくなっていった。2000年オフ、ポスティング制度でのメジャー挑戦は、当時の日本にまん延していた「イチローなら何をやっても驚かない」というマンネリ感を断ち切りたい思いもあったはずだ。だが海を渡った後も、その空気は彼を追いかけてきた。メジャー通算500安打は、新天地アメリカでも日本時代と同じ状況が訪れたことを思い知る節目だったのかもしれない。試合後会見でのつれない態度は彼なりのささやかな抵抗だったのだろう。

【2009年9月7日@エンゼルスタジアム】

 エンゼルスタジアムの一塁ベンチ裏で、イチローの生スイングを目撃した。2009年9月7日、遠征先アナハイムでの休日に彼がひとりで体を動かしていた時のことだ。午前11時過ぎ、時間にして約50分。誰もいない外野を気持ちよさそうに走り、キャッチボール、室内ケージでのティー打撃へと移っていく。締めは素振りだ。静寂を切り裂くスイング音に圧倒され、ただ息をのんで見守った。

 イチローが右足を軽く上げ、柔らかくフロアに降ろす。試合が行なわれない日のスタジアムは静かで、それこそ小さな縫い針が落ちる音でも感知できそうだ。しかしそんな静けさでも目前の、右足の着地音は全然聞こえてこない。そしてピリッと鋭く空気を切る音だけが耳に刺さる。彼が突然小さくうなずき、素振りは終わった。

 時間にして2、3分だっただろうか。あの光景は先述の「打てば打つほど、分かってくればくるほどバッティングは難しくなる」の言葉と同じくらい、筆者にとって強いインパクトがあった。

 この前日、イチローはオークランド・コロシアムでのアスレチックス戦のデーゲームでメジャー通算2000本安打を達成していた。通算1402試合目での到達は20世紀以降で2番目の速さだ。

メジャーデビュー年の4月、日本からやってきた右翼手にコインやアイスキャンデーを投げつけた敵地外野席のファンが温かい拍手で快挙を称えていた。「ここのファンが祝福してくれたのはちょっと感慨深いものがありますね」と会見で彼は和やかに話したが、余韻に浸ったのはきっと試合後の数分だけだったのだろう。

 イチローの体内に宿る「感覚」は、他人にはうかがい知れない。だが彼はその非常に繊細で、丹念に世話しなければ死んでしまう「感覚」といつも真正面から向き合い、対話をしている。「感覚」は他人からの褒め言葉や自己記録、名声や高額報酬などを餌にしないかわり、ただその日、その日で身勝手に違う量、違う種類の餌を気ままに欲する。2000安打達成の翌日の素振りは、まさにその対話の瞬間だったと思う。

 イチローにとっての継続とは何か。集中するとはどのような状態を指すのか。そして自分の感覚に正直でいるとはどういう意味か。彼が何より大切にする準備の要点が、2000本達成の翌日の単独練習に凝縮されていると感じた。

【4000の喜び、8000の悔しさ】

 イチローは渡米数年前からヒット1本の価値を強く意識していた。いや、意識していたというよりも、意識せざるをえなかったとする方が妥当だろう。ヒットを積み重ねることで敵バッテリーの対策は増え、ファンや同僚たちからの期待は重圧となってのしかかった。

打者は基本的に相手の配球に受け身であり、その挑戦をはねのけ続けるしかない。結局いかに思い通りにいかないことが起こっても、なぜそうなったかを自分なりに突き詰め、客観的に対処することしか打開の道はなかった。その繰り返しに耐え続けた者が、次の1本を打つ資格を手にする。

 4000安打に要した日米通算打数は11704。通算打率3割4分2厘の高打率でも、1安打あたり1.93の凡打があった計算だ。

「こういう時に思うのは、いい結果を誇れる自分ではないということ。僕の数字(4000安打)で言えば8000回は悔しい思いをしてきている。誇れるとすれば、その気持ちと自分なりに向き合ってきた事実じゃないかと思う」

安打の喜びではなく、凡打の苦しみを4000安打達成の直後に口にしたことがイチローらしい。

 木村恵二から聞いた話で興味深かったのは、オリックス時代終盤のイチローには「甘いスライダーを投げる」という対策が存在したことだった。

「1994年からどんどん技術も力も(1本目当時に比べて)上がっていった。調子がいいときはそれこそ何を投げても打たれたし、その頃はかえって甘い球を投げたほうが打たれなかった。たとえば普通のスライダーをインコースの高めに投げるとけっこう打ち上げてくれる。甘いからなのか、やっぱりちょっと力が入ってしまうんですかね」

 そんな木村の述懐を、10年連続200安打を果たした頃のイチローにぶつけたところ、木村が西武に移籍してから(1999年以降)の苦手意識を認めている。

「高卒1年目の頃の僕は『木村さんなんて』って思っている。でも何年か首位打者をとった後の僕は『木村さん厄介だな』と感じている。これは怖さを知らないことと、怖さを知っていることの違いではないですかね」

 積み上がっていく数字とともに苦悩は大きくなった。そんな高みを走り続ける者の葛藤を垣間見た思いがした。

 意図的に甘い球を投げるのがイチローには有効というアイデアは、かつてマリナーズで同僚クローザーだった佐々木主浩からも聞いたことがある。

「イチには追い込んでからど真ん中を投げればいい。だってあいつが一番来るはずがないと思っている球だから」

 追い込まれたカウントで相手の決め球を狙い打つ。または予想だにしない悪球を、軟体動物のような動きで拾い打っていく。好球を気持ちよく振り抜くのではなく、難しいボールをしぶとくヒットにつなげることで相手を迷わせ、悔しがらせて心理的なダメージを与える。そんな彼ならではの戦略に、69歳で亡くなる間際までトップ級の実力を保持した日本将棋界の巨星、大山康晴・十五世名人の逸話を重ね合わせたことがある。

 バッティングを生き物に例え、そこに絶対的な正解は存在しないと考えるイチローと、対戦者の読み筋に入ることを嫌い、最善手ではなく次善手を打ち続けた棋界の伝説。感覚を生き物としてとらえ、いかにそのデリケートなものとうまく付き合っていくのか。長く、太いキャリアを築くための哲学は地味なところで通じているように思えるのだ。

 4000本目達成の夜、イチローは日々の準備を徹底することについて、「それは当たり前のこと。そこにフォーカスがいくこと自体おかしい」と語っている。「できる限りの準備をしても次のヒットが打てる保証はない。だから野球は楽しい」との考え方が、そのせりふの背後にある。

 敵地、本拠地、時期は関係ない。現役選手でいる限り、彼のルーティンは延々と繰り返される。次の1本への執着が尽きるまでは――。