共同通信社の記者としてイチローのプロ初安打に立ち会い、1994年から2年間オリックスを担当したのを機に、その動向を…
共同通信社の記者としてイチローのプロ初安打に立ち会い、1994年から2年間オリックスを担当したのを機に、その動向を追い続けてきた小西慶三氏。イチロー渡米後も取材を続けるなど、誰よりもイチローを見てきた。
そんな氏が、2013年12月にweb Sportivaで「メモリアルヒットで綴るイチローの22年」と題し、プロ初安打から日米通算4000本安打を達成するまでのなかでとくに印象に残ったシーンを執筆した。今回、シアトル・マリナーズの一員として7年ぶり凱旋を果たしたのを機に、あらためてイチローの偉大さを胸に刻みたい。

シアトル・マリナーズの一員として7年ぶりに凱旋を果たしたイチロー
メモリアルヒットで綴るイチロー(前編)
イチローは節目、節目でインパクト十分のコメントを残してきた。
「何回やっても強い自分にはなれない。むしろ弱さしか見えてこない」としみじみ語ったのは、6年連続200安打を成し遂げた2006年9月16日(現地時間)のロイヤルズ戦だった。
日米通算3000安打に届いた2008年7月30日のレンジャーズ戦では、「もっと早くメジャー入りしていればもっと多くのヒットが打てたのでは?」との問いに、「日本でのヒット、凡打の中には僕の技術を磨いてくれたものもある。僕は日本で養われた技術で(米国で)ヒットを打っている」ときっぱり返した。
2012年6月17日、不振のため先発オーダーから外れ、その翌日にメジャー通算2500安打。当時、通算1817試合での大台到達はメジャー史上4番目の速さだったが、「今まで打ってきた2400と何本かのヒットが、今日のゲームでは何の役にも立たない」と悔しさまじりに語った。
しかし、過去数々のコメントでもとくに強い印象が残るのは、1999年4月20日の日本ハム戦でプロ通算1000本目を決めた時のものだろう。
「打てば打つほど、わかってくればくるほどバッティングは難しくなる」
彼の生涯打席の半分以上を目撃してきた筆者にとって、その言葉以上にイチローのここまでの戦いを端的に表現しているものはないように思える。
2013年8月21日のブルージェイズ戦で日米通算4000本。次の1本を追い求める旅は、もう当分誰も追いつけそうにないところまでやってきた。1992年の夏、平和台球場でプロ1本目を放ったときから彼は何を思い、何を模索しながらヒットを重ねてきたのか。それぞれの節目と当時の状況を段階的に振り返れば、その言葉の意味が見えてくる気がする。それぞれ筆者にとって忘れられない節目をたどりつつ、その言葉の奥底にあるものを探ってみたい。
【1992年7月12日@平和台球場】
これはただ者ではない。プロ1本目を打たれたピッチャーの直感が始まりだった。ベンチに戻ってきて「あいつ高校を出たばっかりやで」と聞かされて、「ああ、すごいなあと普通に思いましたよ」と木村恵二(元ダイエー、西武)は振り返る。
「スライダーだったかな。ランナーはいなかったんじゃないかな」
ライト前にきれいに持っていかれた。鈴木一朗のスイングは明らかに普通の高卒ルーキーと違っていた。
「普通、高校を出たばかりのバッターに真っすぐを投げたら、ボールに負けるんです。変化球にもついてこれない。僕、プロに入る前に社会人(日本生命)でやっているでしょ。社会人野球でも同じなんですが、高校から入ったばかりのバッターはまだ全然レベルが違っているんです。それが彼の場合はバットコントロール、スイング(のキレ)といろんなものがもうプロのレベルにあった。違和感はなかったですね」
その夜、鈴木一朗は屋台で1杯300円のラーメンを堪能しつつ、”計画”が予定通りにいかないことを嘆いていた。
「1週間で二軍に戻してくれたら最高なんだけどな」
高卒の外野手がプロ1年目のオールスター前に一軍昇格を果たして、まして初ヒットを記録するのはそうあることではない。だがそこで、当初の”計画”を貫こうとしたことが普通ではなかった。
「もうちょっと時間をかけて自分の形を作りたい。3年目まではそういうつもりだったんです。4年後に同い年の大卒が入ってくる。そいつらの一番よりも僕は絶対上手くなきゃいけないし、給料も絶対高くなきゃいけないって思っていた。だから1年目(の一軍昇格)は早過ぎるんですよ」
プロ初安打――めでたいはずの節目でひとり冷徹に長期戦略を考えていた。プロ1本目を喫したピッチャーの「ただ者ではない」との直感は当たっていた。
「日本では大卒、社会人出身は即戦力でなきゃいけないみたいなところがある。だから一刻も早く(一軍で)というのは分かります。まあ、二軍にいる時間が短ければ短い方がいいというのは当たり前ですが、高校出はそうとも言い切れないですよ。やっぱり何かを蓄える時間って必要ではないですかね」
イチローは、プロ1本目を打つ前から、より多くのヒットを打つことに執着していた。そんな1本目の舞台裏を筆者が知ったのは、それから10年以上も経ってからだった。
【1999年4月20日@東京ドーム】
この日、日本ハム・金村暁が4打席目のイチローを抑えていれば、プロ野球史上初となる開幕から3試合連続完封はほぼ確実だった。0-10という一方的展開の9回、無死一塁で飛び出した右中間本塁打は金村の快挙を阻止しただけでなく、史上最速の1000安打達成記録(757試合。従来の記録はブーマー・ウェルズの781試合)も大きく塗り替えた。
だが、そんなインパクト十分の1本にもイチローの素っ気なさは変わらなかった。
メジャーリーグと違い、日本ではクラブハウスへのメディアの立ち入りが許されていない。そのため試合後の談話取材は選手がロッカーから出てきてからせいぜい数分の”ぶらさがり”で決まる。
その頃のイチローが記者泣かせだったのはチームバスや車に乗り込むまでがおそろしく速いうえ、コメントそのものが少ないことだった。試合前、宿舎や自宅からの道中などでメディアと接触することもほとんどなく、担当記者たちは毎試合の原稿づくりに苦心していた。
この日のゲーム後も、東京ドーム三塁側通路から階段を駆け上がる彼についていくのが精いっぱいで、ほとんど質問を継ぐことができなかった。チームバスの乗車口前でやっと足止めし、「打てば打つほど、わかってくればわかってくるほどバッティングは難しくなる」とのひと言を聞いた。
一切笑わず、慎重に言葉を選んでいた姿は、およそ新記録達成には似つかわしくなかった。あの張り詰めたものの背後には何があるのか。その理由がやっとぼろげにわかってきたのは、メジャーでのイチローを取材するようになってからだった。
高くなる一方のハードルを跳び続ける苦しさは、道を究(きわ)めようとする者にしかわからない。結果オーライでバッティングを片付けられればどんなに楽だったか。
しかし、彼は最後まで折れなかった。4000安打を放った日の会見で、イチローは「ちょっとややこしい言い方になりますが」と前置きし、「いろんなことがあきらめきれない自分がいることを、あきらめる自分がずっとそこにいる。野球に関して妥協ができない」と語っている。
後編につづく