サーキットで見つけた『生きがい』

 「生きる方向を決めてくれるもの」――。平川慶一(創理=神奈川・光陵)は自動車レースをそう表現した。若者のクルマ離れが叫ばれる世の中とは対照的に、平川は自動車レースに没頭し、クルマ漬けの四年間を送った。主将として、4年生唯一のドライバーとして駆け抜けた平川が自身の青春を振り返る。

 自動車部との出会いは偶然だった。入学して間もなく、同じ学科の同級生に「1人じゃ心細いから来てほしい」と誘われ、自動車部の新歓に参加。理系学生ということもあり当時は忙しく、入部するつもりはなかったという。ところが6月ごろに再びその友人に誘われ、軽い気持ちで入部を決意した。入部してからは、平日は大学近くのガレージでクルマの整備をし、休日は新潟県の松代練習場に通う日々。授業との両立に不安を感じ部を辞めることも何度も考えた。だが、個性の強いメンバーに囲まれながら、平川は徐々に自動車レースに魅了されていった。


平川は4年生唯一のドライバーとして安定した成績を残した

 転機となったのは1年生の時に出場した全関東学生自動車運転競技選手権(全関東フィギュア)。平川はこのフィギュアの新人の部に公式戦初出場し初優勝を果たした。平川はこの大会のためにドライバーとして初めて真剣に競技について考え、真剣に練習を重ねたという。そしてその真剣に練習に取り組んだ時間こそが、優勝という結果以上に自身を成長させたのだと振り返った。この大会以降、平川に迷いはなくなった。3年時は、一つ上の先輩である主将の齋藤周太(平30人卒)、エースの森田真(平30政経卒)らと共にメインドライバーとして数多くのレースに出場。平川に3年時で最も印象的なレースを問うと、真っ先に夏の全日本学生ダートトライアル選手権を挙げた。男子の部での個人・団体ダブル優勝を果たし、15年ぶりの快挙を成し遂げたレースである。「あの時の部の勢いは超えられていない」。平川はそう振り返った。偉大な先輩の下で、平川は技術的にも精神的にも大きく成長した。

 主将として、そして4年生唯一のドライバーとして迎えたラストイヤー。平川は強いリーダーシップで周囲を引っ張る方法ではなく、部員の意見に耳を傾け部の運営に反映させる『まとめ役』としての主将、そして部員全員が主体性を持って取り組むチーム作りを目指した。その成果が表れたのが、夏の全日本学生ダートトライアル選手権(全日本ダート)と全日本学生ジムカーナ選手権(全日本ジムカーナ)だ。この両大会ではいずれも試合当日に車両トラブルが発生し、特に全日本ジムカーナでは試合当日の出走が危ぶまれるほどの状況だった。メカニックによる決死の修理とドライバーの奮闘の結果、両大会でそれぞれ団体4位、2位を獲得。ダート、ジムカーナ、フィギュアの三競技の合計点を競う全日本総合杯の順位は、全日本ダートと全日本ジムカーナ終了時点で1位と、早大自動車部の総合力が申し分なく発揮された両大会であった。続く全日本学生自動車運転競技選手権(全日本フィギュア)では団体3位と健闘したものの、三競技の総合点はわずかに慶大が上回り早大の順位は惜しくも2位。10年ぶり優勝の夢は叶わなかった。しかし、自動車部は結果以上に成長を遂げた。部全体のメカニックに対する意識が向上し、下級生まで真剣にクルマのことを考えるようになったのはこの一年間で起きた大きな変化だ。平川は「今にも自分たちがやってきたことを超えることができそうだと感じている」と、少し悔しそうに後輩への期待を口にした。

 卒業後は自動車メーカーではなく、あえて建設機械メーカーに就職を決めたという平川。「クルマのことや自分のことでうまくいかなかったら仕事にも響きそうだから」という、クルマが好きすぎるが故の選択だ。また、全関東と全日本のジムカーナで3位だったことの悔しさが忘れられず、平川は昨年の夏にダート用の車を自分で購入。「社会人の大会とかに出たいと思って準備をしている」と新たな野望を明らかにした。そんな平川にとって、自動車レースとはまさに『生きがい』であるに違いない。平川はこれからの新たなステージへ、アクセル全開で走り出した。

(記事 細井万里男、写真 永池隼人)