「今の時代、力を入れている私立も多いですから。昔のように勝つのは難しいですよね」

 2014年春、毎年恒例の後援会の総会。会の冒頭で野球部後援会長が挨拶を述べたが、その声からは”諦め”すらも感じられた__。

 鳥取県立米子東高等学校。昭和30年代、そして昭和後期から平成初頭にかけて度々甲子園に出場し、”山陰の雄”と呼ばれていた公立校だ。「米東(べいとう)」の愛称で親しまれる同校は、県有数の進学校でありながら、春夏合わせて21回の甲子園出場を誇る。

 1960年春のセンバツでは、県勢の最高成績である準優勝を達成。夏の地方大会は、1915年の第1回大会から現在に至るまで、一度たりとも欠かすことなく出場している”皆勤校”でもある。



甲子園の決勝に行った時が本当の復活と語る米子東・紙本監督

 そのプレースタイルは、試合中に見せる洗練されたマナーを含めて「実力と品位の野球」として多くの人々の心を掴んだ。同校OBで、現在チームを率いる紙本庸由(かみもと・のぶゆき)も、同校の野球に魅了されたひとりだ。

「米子東のすぐ近くにある小学校に通っていたこともあって、幼少期からよく練習を見ていました。当時は、ちょうど”第2次黄金期”と呼べるほど力のあった時代。憧れの存在で、『絶対に自分もここで高校野球をやるんだ!』と決意したことを覚えています」

 高校野球では唯一無二と言ってもいい”わかくさ色”の胸文字が、純白の生地に縫い込まれた伝統のデザイン。憧れのユニフォームに袖を通すだけでなく、いつしか「米子東で監督をする」ことが人生の目標になっていた。

「中学時代から『オレは将来、東高で監督をする!』と周囲に言っていたみたいで。旧友と再会したときに、母校で監督をしていることを話すと、『夢が叶ったんだね! 昔から言ってたもんねえ!』と必ず言われるんです。正直、僕自身はまったく記憶にないんですが(苦笑)。でも、それぐらい自分を惹きつける存在だったんです」

 同じく地方大会皆勤の鳥取西ともに、鳥取の高校野球界をリードする存在だったが、時代の移り変わりとともに、冬の時代へと差し掛かっていく。体育系の学科を持つ公立校、選手獲得や練習環境の整備に力を注ぐ私立校の台頭もあり、1996年春のセンバツを最後に甲子園から遠ざかっていた。

 さらに、2008年から2012年までの5年間、夏の県大会はすべて初戦敗退。不振にあえぐ状況で母校に戻ってきたのが紙本だった。

「私立の存在感が強まったこともあって、『公立校、それも進学校が甲子園に行くのは難しいよね』という空気が現場、OB会、保護者会それぞれに漂っているように感じました」

 紙本が米子東に赴任する前年の2012年に、鳥取城北が春夏連続の甲子園出場を果たした。着々と”勝ちグセ”を身に付けつつある強豪の登場もあり、冒頭のような後援会長の挨拶が生まれたのだ。紙本は言う。

「当時の会長も、チームをけなす意味ではなく、僕たち現場に批判が向かないように気遣いのニュアンスでおっしゃったんだと思います。でも、そこに『もう甲子園は無理だよな』という本音があったのは事実でしょうし、OBのひとりとしては、そう思われる状況が寂しくもありました」

 コーチとして臨んだ2013年夏。当時の中心選手には森下智之(現・明治大、2018年春東京六大学ベストナイン受賞)らもおり、決して力がないわけではなかったが、3-6で惜敗。夏の初戦連敗が6年にまで膨らみ、大会後に監督交代の必要性が叫ばれるようになる。そして春からコーチを務めていた紙本に白羽の矢が立った。

「母校を含めて4校でコーチ経験を積ませてもらいましたが、監督は初めて。本音を言うと母校で監督をする喜び以上に、『正直この状況は厳しいな』という戸惑いの方が大きかったですね」

 念願成就というよりも”急転直下”の監督就任。思わぬ形でスタートした紙本の監督人生だったが、約9年間のコーチ経験から「こうすれば甲子園に行けるのでは」という”青写真”は描けていたとも語る。

「まずやらなければならないのは、『何をやるべきかを”科学的知見”に基づいて決める』ことだと思っていました。くわえて、強くなるための方法を”細分化”していくこと。たとえば打力を上げるためには、強打者が持つレベルの体と、適切な打撃フォームの両方が必要になってきます。体を大きくしようと思ったら、そのために必要なトレーニングと栄養管理について専門家に学ぶ。打撃フォームについては、動作改善の専門家に教えを請う。各分野に精通している方々から知見を得て、その上で練習を練り上げることが、勝つための近道だと」

 安易に強豪校の模倣に走るのではなく、多種多様な分野から貪欲に知識を吸収した。練習メニューの充実だけでなく、選手たちのモチベーション向上にも工夫を凝らした。

「『これをやりなさい』という指示だけでは、指導者がいるときは一生懸命やっても、目を離した途端にやらないようになってしまいます。そうではなく、こちらが見ていないときにも自発的に練習に向かう選手にするには、『こんな選手になりたい』、『野球を通じてこんなことを実現したい』という”内発的動機づけ”が不可欠。そのために”目標設定”と”コーチング”が必要になってきます」

 コーチングや教育学者が提唱する目標達成メソッドについて紙本自身が学び、認定講師の資格も取得。現在は各選手が、長・中・短期の各段階別に目標を設定している。選手自身が記入する”目標達成シート”には、各自のやるべきことがびっしりと記入されている。

 プロ野球選手のコンディショニングも担当するトレーナーの意見を基に構成したトレーニング、ストレッチメニューに取り組むことで、強く、柔軟性のある体をつくる。その身体と”理想的”と呼ばれる投球、打撃動作への理解が合わさり、投げるボール、放たれる打球が変わってくる。目標設定とコーチングによって、自主性が育まれたことで、紙本が言わずとも選手たちは精力的に自主練習へと向かうようになっていった。

 方向性の定まった練習と、選手個々の高いモチベーション。チームの変化は、公式戦の結果として表れはじめる。

 監督就任翌年の2014年夏に初戦連敗をストップ。同年秋には10年ぶりの中国大会出場を果たした。2017年には、1991年以来となる夏の県大会決勝に勝ち進み、甲子園にあと一歩まで迫る。

 そして、昨年秋に23年ぶりの中国大会決勝進出。1996年春のセンバツ以来の甲子園出場を確実なものとした。紙本が進めてきた改革が、米子東の”新たな伝統”として根付いた証でもあるが、ここに至ったのは「監督として最初にかかわった最初の選手たち、とりわけ初めて2年半指導した世代の存在が大きい」と語る。

「彼らが今の米子東の”礎”をつくってくれたと思っています。監督らしいことはほとんどできていない、右も左もわからない自分についてきてくれて、とにかくよく練習する学年でした。あれほど練習した世代はほかにはなかった、と断言できるくらいで、”本物の練習”をチームに根付かせてくれた。一番日の目を見ない世代ではありましたけど、彼らの存在がなかったら今はないとハッキリ言えますね」

 今回のセンバツ当確で、周囲からは”古豪復活”の声も上がる。しかしながら、「まだ復活ではない」と紙本の自己評価は厳しい。

「米子東は一度甲子園の決勝まで勝ち進んだチーム。そこと同じ場所、”甲子園の決勝”に戻ったときが、本当の意味での復活だと思っています。そこに向けた第一歩が今回のセンバツ。選んでいただけた場合、23年ぶりの校歌を歌うために本気で勝ちに行く。これが復活へのスタートになるはずだと」

 復活の意味を説明すると同時に、自身の果たすべき役割についても語る。

「公立校の教員である以上、いずれ異動しなければなりません。そうなったときに、『監督が代わったから勝てません』となるチームでは復活できません。監督が交代しても強さが永続的に続いていくような練習環境はもちろん、現場、学校、OB会、保護者会が一体となって甲子園を目指す組織をつくる。それに向けた土台作りが、母校に帰ってきた、母校の監督を任せてもらった僕の役目だと感じています」

 最後に少し表情を緩めて、こう付け加えた。

「ずっと『オレたちの時代は強かったぞ』と先輩方に言われ続けるのも悔しいじゃないですか。昭和30年代の第1次、昭和後期から平成初頭にかけての第2次黄金期に続く、3度目の黄金期を迎えて『米東は今も昔も強いな』と言われるようにしたい」

 古豪から再び”強豪”へ。母校を愛し、「趣味は野球」と言ってはばからない、研究熱心な指揮官が描く”名門復活ストーリー”。この春、その第1章が幕を開ける。