古村徹のDeNA再入団までの道のり(後編)(前編の記事はこちら>>) 古村徹は愛媛マンダリンパイレーツ(四国アイラン…
古村徹のDeNA再入団までの道のり(後編)
(前編の記事はこちら>>)
古村徹は愛媛マンダリンパイレーツ(四国アイランドリーグplus)加入1年目の2016年シーズンでNPB復帰への手応えを掴んだが、翌2017年には暗転した。
5年ぶりにDeNA復帰を果たした古村
フォームのバランスが崩れ、乱れたコントロールを矯正するためにオーバースローからサイドスローに転向。しかし、リーグの後期には若手投手にチャンスを与えるチーム方針もあり、この年に24歳となった古村の登板機会は減少した。
そのことについて、当時の古村はこう語っていた。
「これまでは野球が好きだから全力で打ち込んで、それが結果につながったら評価されていましたけど、今は”好き”だけじゃ越えられない壁があります。心が折れることもありますけど、幸いNPBでの経験があるので、今の自分に何が足りないかというのは把握できています。腐っているヒマはないですよ」
毎朝、自作の弁当とバナナ、プロテインを持って練習場へと向かい、自費でジムに通って体を大きくした。独立リーグにはアルバイトを掛け持ちして生活費を稼ぐ選手も珍しくないが、古村は貯金を切り崩しながら野球にだけ集中した。そこにはこんな理由があった。
「野球に集中できるのは、ベイスターズ入団時の契約金があるからです。一度は親に渡したんですが、『私たちはいいから、自分のために使いなさい』って返してくれたお金を使うことができています。両親は僕が何をするにも後押しをしてくれるのですが、打撃投手から現役復帰を目指そうと決めた時に、『実は、裏方になると聞いた時、しばらく眠れない日が続いた』と初めて明かされました。挑戦の期限は3年間。25歳までと決めていますから、復帰できなくても来年が最後の年です。悔いを残さずやり切りますよ」
古村は2017年シーズン終了後にBCリーグの富山GRNサンダーバーズに移籍した。その富山への引っ越し代だけは、愛媛のスキー場でのアルバイトで賄った。独立リーグでの最後のシーズン。原点であるオーバースローに戻した古村は、ある決意を胸に抱いていた。
「150キロを目指します」
それはNPBに明確にアピールできる数字であるという以上に、「これだけやって誘いがなければ諦めがつく」「完全燃焼した」と自身を納得させるための材料だったように思える。
だが、オーバースローに戻した当初のフォームはバラバラだった。前年にサイドスローで投げた名残りで肘が下がり、体が倒れてしまう。それでも、今年の富山GRNサンダーバーズを率いた伊藤智仁監督(現楽天一軍投手チーフコーチ)は、自分のフォームを見失っていた古村を枠に嵌めなかった。
「直すところだらけだからね。絶対によくなるよ」
伊藤監督はリーグが開幕しても古村を無理に投げさせず、投手として重要なフォームや心構えが、本人が納得できる状態になるまで待った。
古村が理想の形を掴んだのは4月下旬。今年チームに加入した乾真大(元巨人)のキャッチボールを真似してみたところ、スピードガンは145キロを計測した。その後も、5月4日の試合で146キロ、同20日の試合で149キロとスピードが上がっていく。自分の中にあると信じてきた”伸びしろ”が、実力に変わっていくことを実感する日々だった。
「これまで、あらゆる体の使い方、フォームを試してきました。その過程で積み重ねてきた失敗があったからこそ、やっと自分にハマる形を見つけられたんだと思います。どうしていいボールが投げられるのかを頭で理解できるようになったので、7月にもフォームが崩れたんですけど、修正して戻すことができました。
伊藤監督は『やったのは古村自身だ』と仰いますが、僕にとっては神様みたいな人ですよ。でも、以前の自分が伊藤さんや乾さんと会っていても、今のようになれていたかわからない。僕にとって必要な失敗を積み重ねた上で、最高のタイミングで、最高の人たちに出会えたことの集大成だと思っています」
今夏には、古村のストレートは目標としていた150キロに達した。フォームの悩みがなくなり、カットボール、フォークを習得したことで”狙って三振が獲れる投手”になった。
チームではセットアッパーを任され、獅子奮迅の活躍を見せていた古村のもとに、NPB複数球団のスカウトが注目しているという話が入ってきた。リーグを終えた秋、古巣のベイスターズを含めた各球団の入団テストを「自分の力を出し切りました」と振り返った古村は、10月19日にNPB挑戦のリミットとしていた25歳になった。
ドラフトが終わり、各球団が来季の編成を決めていく。そんな中、古村から「(DeNAに)決まりました」という連絡がくる。信じられない思いだった。
茅ヶ崎西浜高校時代の恩師・渡辺晃監督も、古村から再入団の報告を受けた際には感動に打ち震えたという。
「体もふた回りほど大きくなったが、人間として本当に大きく成長してくれましたね。メールの文面にも人を気遣える言葉遣いが表れていた。高校を卒業してから、いい人たちに巡り会えたんだろうなと思います。指導者をやってきたなかで古村にはあらためて『人間は成長するものだ』と、教えてもらったように思います」
11月26日、8年ぶり2度目となるベイスターズへの入団会見に臨んだ古村は立派な大人になっていた。身体も、高校時代に細かった眉毛も、見違えるほどに太くなり「僕にはまだ伸びしろがある」という言葉も、以前とは違うように聞こえてくる。
「傍から見れば蛇行しまくりの野球人生ですけど、僕には目指すべきところがずっと見えていて、そこに向かってきただけです。NPBに戻れると決まった今だから言えることなのかもしれないですけど、やってきたことはすべて無駄ではなかった。胸を張ってそう言えます。正直、何度も心は折れましたが、野球が嫌いになることも、腐ることもありませんでした。
僕を奮い立たせてくれたのは、両親や、現役復帰に背中を押してくれたベイスターズの先輩や同期や裏方の人たち。独立リーグでお世話になった指導者の方々や、切磋琢磨した仲間。そういう人たちへの感謝が、背負うものになっているんでしょうね。それがなきゃ、乗り越えられなかったですよ」
古村は苦しい時、茅ヶ崎西浜高校3年時に放った、2011年夏の神奈川県大会3回戦での逆転満塁サヨナラホームランを思い出すという。
ド派手な一発逆転という意味ではない。公式戦で1本もホームランを打ったことのない古村が何故あの場面で打てたのか。後日考えてみると、思いあたる節がいくつかあることに気がついた。
「野球の神様は絶対に見ています。正々堂々、自分の力を信じてやるべきことを続けること。そうすれば、必ず結果はついてくるんじゃないかと思うんです。再入団が決まって、みんなが『やっとスタートラインに立ったね』と喜んでくれていますが、僕のスタートラインは一軍の横浜スタジアムのマウンドに立った時。一軍が簡単な世界じゃないことは理解しているつもりです。でも、この4年間はブランクじゃない。僕にとってはかけがえのない経験となった”武器”です。
そこで結果を残せなければ『やっぱり、ダメだったか』と言われてしまうでしょうね。無名の高校からプロを目指して精進している人、独立リーグでNPB復帰を目指して頑張っている人もたくさん見てきました。その人たちに『やれば道は拓けるんだ』と言えるようになるためにも、絶対に結果を残します」
NPBに復帰するために生活費として切り崩してきた7年前の契約金は、この秋でちょうど底を尽いた。偶然と言ってしまえばそれまでだが、まるで一軍のマウンドに上がるための”支度金”だったようにも思えてしまう。
古村にとっての最終目標は、一軍のマウンドで1年間投げ抜くこと。その先に、史上初となる打撃投手からのカムバック賞も見据えている。2019年シーズン、古村はプロ野球選手として多くの人に希望を与えられる存在になってくれる。絶対になれるのだ。「こむらがえり」が野球界で新しい意味を持つようなことだって。筆者は信じている。