卓球一家・森薗家物語(前編) 10月24日に開幕するTリーグ。リーグ戦には松平家(賢二、健太、志穂)、吉村家(真晴、和弘)、張本家(智和、美和)などの兄弟が参戦しているが、これまでに卓球界で大きな輝きを放ち、今も異彩を放っているのが森薗…

卓球一家・森薗家物語(前編)

 10月24日に開幕するTリーグ。リーグ戦には松平家(賢二、健太、志穂)、吉村家(真晴、和弘)、張本家(智和、美和)などの兄弟が参戦しているが、これまでに卓球界で大きな輝きを放ち、今も異彩を放っているのが森薗家だ。



TリーグのTOP名古屋に所属する森薗美咲

 森薗家とは美咲(26歳)、政崇(23歳)の姉弟と従妹の美月(22歳)の3人のことである。Tリーグで美咲はTOP名古屋、政崇は岡山リベッツ、美月は木下アビエル神奈川でプレーする。

―― 森薗家の個性とは。

「みんな、変わっている。自覚ないですけどね」

 政崇は、笑ってそう言う。

 卓球界は兄弟でプレーするところが多く、いずれも日本のトップクラスにある。どんなスポーツでもそうだが長男や長女がプレーしていると、弟や妹たちはその影響を受け、同じ道を歩む。

 森薗家もそうだった。
 
 美咲と政崇の父である誠と美月の父である稔は双子の兄弟で、ともに卓球選手だった。兄は美月の父である稔で、現役時代はサンリツでプレーし、弟・誠はシチズンでプレーしていた。現役時代は、ともに負けず嫌いで、ライバル心を燃やしていたという。

 卓球は、美咲が最初に始めた。

 父がコーチだったが、その指導は「今なら問題になるくらいの厳しさ」だったという。

「めっちゃ厳しかったです。平日は学校終わって友人と遊ぶ時間がちょっとあるんですけど、練習がきついので子どもながら体力温存のために外では遊ばなかったくらい。土日は朝8時から夜8時までほとんど休みなく練習をしていました。もう週末なんかいらないって思っていましたし、やめたいとしょっちゅう思っていました」

 本当に1日も休みがなく、子ども心にも自分が壊れてしまうと危惧し、たまに仮病を使って休んだりした。厳しい練習が続くなか、試合で勝てるようになると楽しく思えたが、心からそう思えたのは親元を離れて青森山田中学に進学してからである。



Tリーグの岡山リベッツに所属する森薗政崇

 政崇は、姉が厳しい指導を受けて卓球をしている様子を横で見ていた。

「僕が卓球を始めたのが4歳の誕生日からなんですけど、姉はその2年前からやっていました。父はボコボコにするのが当たり前、星一徹のような指導だったんで、僕は嫌だったんです。でも、気づいたらラケットを握らされていました。

 正直、卓球も父も嫌いでしたね。怖いし、やらされている感、満載です。ラケットを握った瞬間、号泣しながらやっていました。なんで、こんなに厳しい目に合いながらやるんだよって子どもながらに自問自答の日々でした」

 ふたりが誠の厳しい指導の下、卓球を始めた時、政崇の1歳下の美月はクラシックバレエやピアノなど自分のやりたことに集中していた。美月の父・稔は、卓球をやると親子関係を越えて厳しくやらざるをえないのを理解していたので、あえて卓球から娘を遠ざけていたのだ。

 だが、卓球一族に流れる血には抗(あらが)えなかった。

 東京に住む誠の家族は正月、愛媛の稔の家族と一緒に年越しをするのが通例になっていた。美月が6歳の時、美咲と政崇が愛媛にやってきた。稔は「1日休むと戻すのに3日かかる」というのが口癖なので、旅行に行く時も必ず卓球台がある場所に行っていた。この時もいつもどおり、美咲と政崇は正月休みもなく練習をしていた。休憩時間の合間、美月がラケットを持ち、遊んでいた。

「美咲ちゃんと政崇は真剣に練習をしていたんですけど、私はラケットの上にボールを載せて遊んでいた感じでした。でも、すごく楽しかったんです」

 美月は卓球に初めて触れ、今までの習い事とは違う楽しさを感じた。

 すぐに卓球を始めたいと思ったが、父は二刀流を許さなかった。卓球かクラシックバレエか。宝塚を目指していたので選択に迷いが生じたこともあった。しかし、ふたりが東京に戻って数カ月後、美月は父にすべての習い事をやめて卓球に専念することを伝えた。そして美咲や政崇と同様、鬼のように厳しい父の指導を受けることになったのである。



木下アビエル神奈川に所属する森薗美月

 当時、美咲は「小学生なんですけど、自分が生きていくので精いっぱい」だったので、美月が卓球を始めたという記憶がなかった。だが、政崇は「ついにこっち側にきちゃったな」と思いつつ、「卓球を始めてくれたのはうれしかった」という。

 こうして3人は揃って卓球の道に進むことになったのである。

 美月が小学校に上がっても美咲と政崇は、正月になると愛媛に来ていた。一緒に練習し、終わったら食トレである。政崇と美月は食が細いため、無理やり詰め込むとそのままトイレに行き、リバースすることもあったという。「卓球の練習もキツイけど、食べる時間もめちゃキツかった」と、美月は食トレが卓球の練習よりも嫌いだったという。

 3人一緒に練習ができていたのは、美月が小3の頃までだった。小4になると4歳年上の美咲は青森山田中学に進学し、エリート街道を歩み始めた。

 美咲は2004年、2005年と全日本選手権のカデットの部(13歳以下女子シングルス)で準優勝し、2006年全中女子シングルスでも準優勝。ITTF女子ワールドカデット女子シングルスで優勝するなど、その名前は全国区になっていっていた。

 政崇も全日本卓球選手、カブの部(小4以下)で優勝するなど、早くから目立ち、森薗姉弟として注目を浴びるようになっていた。父の厳しい指導により、ふたりの才能が開花していったのだ。

 美月は、スタートが遅かったので、なかなかふたりに追いつくことができなかった。

「私が始めた時は、ふたりはすでに雲の上の存在でした。あまりにも遠いんで、ふたりに追いつくというよりも純粋に強くなりたいという気持ちで卓球をしていましたね」

 ふたりに出遅れた美月も力をつけていき、小6の時にJOCジュニアオリンピックカップ女子カテッドの部で初めて全国優勝を果たすことになる。

 その後、美咲は青森山田高校に進学し、政崇が青森山田中学に行き、美月はJOCアカデミーに入った。そこから3人は、ぞれぞれの環境で自分自身を磨いていくことになり、しばらく距離を置くことになる。

 3人のなかで突出した活躍を見せていた政崇が言う。

「中学の時の自分は、姉を追うという考えはなかったですね。男子と女子では違うし、戦う場所もプレースタイルも違う。青森山田にはひとつ上に丹羽孝希さん、町飛鳥さん、吉田正巳さんらがいてレギュラー争いが熾烈でした。そこでレギュラーを勝ち取ると日本一が見えていた状況だったので、とにかく必死でしたね。自分の環境で戦うのに」

 美月は1年でJOCアカデミーを辞めて愛媛に帰り、中学を卒業後、四天王寺高校(大阪)に進学した。その頃、美咲は日立化成に加入し、社会人の選手として第一歩を踏み出していた。政崇は、青森山田高校でさらに成長し、2013年には全日本卓球選手権ジュニアの部シングルスで優勝するなど、目覚ましい活躍を遂げていた。

 森薗家が俄然、注目を浴びたのは、平成26年度の全日本卓球選手権である。

 美咲、政崇、美月の3名とも種目は異なるが決勝に進出したのだ。

 先頭打者は、美月だった。阿部愛莉とダブルスを組み、石川佳純&平野早矢香と女子ダブルス決勝で対戦した。その試合を観ていた政崇は、「えぐい試合をしていた」と美月らの健闘に驚いたという。しかし、激戦の末、3-2で敗れて準優勝に終わった。

 続いて登場したのが、政崇だ。三部航平とのコンビで水谷準&岸川聖也と男子ダブルス決勝で戦った。前年の決勝に続き、同じ組み合わせでの対戦になったが、政崇たちは3-0で相手を一蹴した。見事、優勝し、連覇を達成したのである。

 そして、しんがりは女子シングルスの決勝だ。

 女王・石川佳純と美咲の対戦になったが、4-1で敗れ、準優勝になった。

 この3人の決勝進出、目覚ましい活躍は卓球界を席巻。「森薗家、大フィ―バー」と大々的に報道され、森薗家に一気に注目が集まった。

 その時のことを政崇は、よく覚えているという。

「普段、卓球で森薗家を意識したことがなかったんですけど、号外とか出て初めて自分の家を意識させられたし、めちゃくちゃうれしかったです。『俺の知らないところでみんな頑張ってんなぁー』って思いましたね。美咲は惜しかったし、美月はそんな試合できるんだっていうぐらいすごい試合をしていました。本当は、みんな優勝して、喜びたかったんですけど、この時をキッカケにいろんな人に森薗家を知ってもらったんで、それはすごくよかったです」

 ちなみに3人は、それぞれに優勝や準優勝のお祝いのラインも連絡もしなかったという。美月は高校の規則で連絡が取れず、美咲は翌日の世界選手権のメンバー発表が気になって準優勝で浮かれている場合ではなかったのだ。それでも普通は姉から弟に連絡があってもおかしくはないが、そこが森薗家のドライなところで、いい意味で独立している。お互いに頑張っていこうね、という青春ドラマみたいな甘酸っぱい空気は3人にはない。

 試合に勝って、一番になる――。

 プロなら誰でもそう思うが、3人はなおその想いが強い。

「みんな、負けず嫌い。しかも、相当の」

 政崇はそう言う。

 そんな3人が、Tリーグに参戦することになる。

(つづく)