昨季限りで退団の右腕が歩み始めた新たな野球人生 先日7月30日、昨年までヤクルトでプレーした中島彰吾投手が豪州リーグのシドニー・ブルーソックスに入団することが発表された。ヤクルト退団後はオランダへと活躍の場を広げた右腕が、次は豪州でさらに力…
昨季限りで退団の右腕が歩み始めた新たな野球人生
先日7月30日、昨年までヤクルトでプレーした中島彰吾投手が豪州リーグのシドニー・ブルーソックスに入団することが発表された。ヤクルト退団後はオランダへと活躍の場を広げた右腕が、次は豪州でさらに力を磨くことになった。
2014年育成ドラフト1巡目でヤクルトに入団した中島は、2年目の2016年5月2日に支配下登録を勝ちとった。1軍では通算5試合に登板したが白星を飾れぬまま、昨年限りで退団。その後、異色の野球人生を歩み出した中島は、現在どんな心境で野球と向き合っているのだろうか。
「元々、海外への憧れがあり、違う世界に飛び込みたかったんです」
昨年10月に戦力外通告を受けた当時は、野球への情熱を失いかけていた。育成選手として入団したヤクルトでは支配下選手になったが結果は残せず。次なる道を模索していた今年1月、アジアンアイランダースという“トラベリングチーム”が誕生すると知り、すぐさま入団を決めた。
アジアンアイランダースは、台湾でトライアウトを兼ねた試合をしながら海外でのプロ契約を目指すというチームで、日本をはじめ、フィンランドやアメリカ合衆国など6か国から集まった選手で構成され、自らの力で道を切り開くための挑戦の場だ。入団を決めたきっかけは、チーム創設者の色川冬馬氏との出会いだった。
日本国内ではなく台湾という異国で力をアピールし、海外プロ球団でのプレー機会を模索するという奇想天外な発想に惹かれた中島は、リリーフとしてマウンドに立ち続けた。ここでオランダ球界関係者の目に留まり、1部リーグのデ・フラスコニンフ・ツインズに入団が決まった。ツインズでは開幕投手となり、4回無失点と活躍。日本からやってきた“サムライ”はその後、リリーフも兼任しながら投げ続けた。
海外で得た自信、そして未来の展望
オランダでの挑戦に一区切りをつけた中島が、次なる挑戦の場として選んだのは豪州だった。シドニー・ブルーソックスが所属するプロリーグは、2018-2019年シーズンから全8球団の2地区制に変更され、新たなスタートを切る。豪州は世界中の若手選手が集まる武者修行の場で、NPB球団でも選手を派遣するチームは多い。中島はまた新たな形で、海外への憧れを“実現”。日本・台湾・オランダ・豪州と、野球人として誰も経験したことがない道を歩んでいる。
台湾での試合経験を経てオランダに渡った中島は、異国で投げ続ける中で自らの行動や考え方が大きく変化していったという。「日本にいた時はプレー環境が整っていましたが、オランダはまったく逆の世界です。食事はもちろん、体のケアなどすべて自分でやらなくてはなりません。それが僕にとって大きなことでした。この経験のおかげで今、自分自身の人生を歩めていますし、昔の自分よりも向上心があると自信をもって言えます」と、生き生きとした口ぶりで話した。
NPB球団を退団した選手が歩む主な道は、独立リーグや社会人チームでのプレー機会を探すか、引退して一般企業へ就職したり、自営業を営むものだ。だが、中島が今歩むのは、まったく違った道。今回の豪州行きが決定した直後でも、すでに未来の展望を胸に秘めている。
「プレーするからにはトップレベルでやりたいですね。MLBも目指します。現在はオランダで野球教室等を通じて子供たちに教える機会をいただいていますが、同じ夢を持つ子供たちも皆、ライバルです。そして、いつかは自分の経験を次の世代に伝えていきたいと思います」
ヤクルトを戦力外になった時、中島の口からこんな言葉が出るとは誰も想像しなかっただろう。当時の状況は、言ってみれば「2死満塁のマウンド」に立たされたようなものだ。人生のピンチに立たされた中島を救ったのが、台湾とオランダで得た経験だった。そして、今度は豪州で未知の世界に飛び込んでいく。
育成選手から世界へ――中島の野球人生はこれからが本番だ。(豊川遼 / Ryo Toyokawa)