「監督」は三塁側ベンチの奥に腰掛け、じっと戦況を見守っていた。事情を知らない者が見たら、その手前でベンチから身を乗り…
「監督」は三塁側ベンチの奥に腰掛け、じっと戦況を見守っていた。事情を知らない者が見たら、その手前でベンチから身を乗り出し、選手に向かってブロックサインを送る若い指導者を監督と勘違いしたかもしれない。
若い指導者はコーチの鈴木了平だった。「監督」から全権委任され、試合中の指揮を執っている。「監督」は采配を鈴木コーチに任せ、時にはベンチ奥で選手と話し込み、時に好プレーをした選手に笑顔で拍手を送った。板橋高校を相手に10対0の6回コールド勝ち。会心の勝利を飾った「監督」は、神宮第二球場のダッグアウト裏に笑顔で現れた。
「生徒たちはみんな一生懸命にやる子ばかりです。大会前からみんな調子がいいわけではありませんでしたが、自主練習から懸命に取り組んでいました。みんな真面目なので、ついつい私も付き合ってしまうんです」
「監督」は今春4月1日付けで堀越高校(東東京)にやってきたばかりの新監督である。名前を小田川雅彦という。

修徳高の監督時代、2度の甲子園を経験している小田川監督(写真左から2人目)
この名前にピンときた読者は10年以上前からの高校野球ファンか、中学軟式野球に詳しいマニアだろう。
小田川監督は修徳学園中(現・修徳中)を全国屈指の強豪に育て上げた指導者として知られる。16年間で全国中学校軟式野球大会(全中)に2度出場。タレントの武井壮も修徳学園中時代の教え子のひとりだ。野球へのあくなき探求心に加え、周囲の人間の心をつかんで離さない巧みな話術。カリスマ的な指導と実績を買われ、2001年秋に修徳高校(東東京)の監督に就任した。
2004年夏、2005年春と齊藤勝(元日本ハム)を擁して2季連続甲子園出場。2004年夏は全国ベスト8に進出した。好選手も続々と修徳の門を叩くようになり、まさに順風満帆に見えた。だが、好事魔多し。2005年9月に最悪の出来事が起きる。
野球部員の集団万引き事件──。この事件によって、修徳は日本高野連から1年間の対外試合禁止という重い処分を受ける。選手が犯した過ちとはいえ、小田川監督は「選手たちにそんな行動に走らせてしまった」と自分を責めた。後に反省の態度が認められ、出場停止期間が短縮。夏の東東京大会への出場は認められた。4回戦で岩倉に2対3で敗戦した区切りをもって、小田川監督は監督を辞任。そして、表舞台から姿を消したのだった。
あれから12年。小田川監督が修徳から堀越へと指導の場を移し、再び高校硬式野球の世界に戻ってきた。
「実は最初に声を掛けていただいたのは、修徳で不祥事があった頃でした。当時の堀越の校長先生が『もし修徳をクビになったらウチにおいでよ』と言ってくださって。ありがたいお言葉でしたが、具体的に進展することはありませんでした。それが昨年11月にまたお電話をいただいて、『ウチはピンチなんだ』と。若い指導者ではなく、経験のある人間に来てもらいたいということでした」
当時、堀越は硬式野球部に不祥事が相次いでいた。11月に前監督が辞任すると、監督不在のまま選手たちは冬場を過ごさなければならなかった。一方、小田川監督も修徳で3年生の担任を受け持っていたこともあり、卒業生を見届けるという責任を果たした後に堀越の監督を受諾することになった。
とはいえ、小田川監督はすでに還暦を過ぎている。硬式野球部の監督を辞した後は高校軟式野球部の監督を務め、そこでも全国大会に導いていた。波風立てずに平穏に教職をまっとうすることもできたはずだ。当然、葛藤はあった。しかし、小田川監督は心に引っかかりを残していた。
「修徳のとき、あれだけ素晴らしい選手に恵まれながらも2回しか甲子園に行けなかった。最後の年は出場停止処分を受けて、選手たちに6月23日まで野球をできなくさせてしまった。痛恨の思いでした。これが私にとって硬式野球の指導の最後になるなんて……と思うと、死んでも死にきれない。そう思ったんです。だから堀越から話をいただいて、『自分でよければ』とお受けすることにしました」
堀越もただの強豪ではない。春5回、夏5回の甲子園出場実績を誇り、1969年春のセンバツでは準優勝に輝いている。1997年夏を最後に甲子園から遠ざかっているとはいえ、歴史のある伝統校であることには違いない。OBには井端弘和(巨人コーチ)や岩隈久志(マリナーズ)といった名選手がいる。
堀越に来て小田川監督が驚いたのは、想像以上に選手たちがひたむきで、かつ能力が高いことだった。監督不在の冬場の4カ月を鈴木コーチらとともに乗り越えた選手たちは、本格的な指導に飢えていた。堀越の主将を務める小宮諒太郎は言う。
「監督がいないことは僕らにはどうにもできないことなので、変わらず積み上げてきたことをやっていこうと冬の間も信念は貫いてきました。チームメイトにも輪を乱すヤツはいませんし、自分たちを信じてやっていこうと」
小田川監督が堀越に赴任したのは、春の大会の初戦2日前だった。選手たちは小田川監督からそこで意外なことを教わっている。小宮が明かす。
「まず野球のルールから教わりました。選手として最低限、頭に入れておかなければいけないことだと。それまでの自分たちは、ただ力だけで野球をやっていました。スーパースターがいるわけでもない自分たちが勝つには、頭を使ってチーム力で勝たなければいけないことに気づかされました」
真面目で吸収力のある選手ばかりだったが、一方で気になることもあった。それは選手たちが自信を持ってプレーしていないことだった。小田川監督は言う。
「いい選手が多いのに、自分に自信がないんです。どうしてなのか考えました。彼らは中学時代に名の通ったチームに所属していて、控えメンバーだった選手が多いんです」
どこかで気後れしているのだろうか。高校で実力を磨いているにもかかわらず、どこか自信なさそうにプレーする選手たち。それが顕著に表れていたのが走塁だった。
「中学時代からの試合経験が少ないから、走塁面は強豪との差がありました。ホームに還ってこられる打球でも足が止まってしまう。走塁は、相手捕手がショートバウンドを止めるのを見て、ランナーが1~2メートル先まで進んで止まる練習から始めました」
板橋戦では走塁練習の成果が出て、二塁走者がシングルヒットでホームに生還し、また打者走者が送球間に二塁まで進むシーンも見られた。小田川監督はベンチの奥から立ち上がり、選手に向かって両手でピースサインを送っていた。
「生徒たちに『それでいいんだ!』とオーケーの合図を送ったんです。少しでも自信になればいいですし、それを続けることで自分のものにしてほしいんです」
指導を始めてまだ3カ月である。言いたいことはたくさんある。だが、それ以上に選手たちの成長がうれしくてたまらない。小田川監督の弾んだ口調から、そのことが伝わってきた。
「今日投げた石川(嘉也)は、前の試合で6点先制した裏の守備で先頭打者にフォアボールを出したんです。石川には『バッターの顔を見て投げているか?』と言いました。自分しか見えていないから、力が抜けないんじゃないかと。五分の力で投げても球速まで半分になるわけではないのですから」
その言葉を受けて臨んだ板橋戦、再び先発登板した石川は見違える投球を見せた。小田川監督から感想を求められた石川はこう返答したという。「力を抜くということが、力になるということがわかりました」。
「『なに哲学的なかっこいいこと言ってるんだよ!』って思いましたけど(笑)、彼も全力で速い球を投げ続けるより、同じ真っすぐでもスピードに変化をつけるほうが打ちづらいことにようやく気づいたようです」
ところで、試合中に鈴木コーチに采配を委任しているのはなぜなのか。そう問うと、小田川監督は決然とこう答えた。
「私は彼らの冬の練習を見ていません。誰がギリギリまで自分を追い込んで練習したのか、その姿を見ていません。私はその姿勢が夏に出ると思っています。だから冬場に陣頭指揮をしてきた鈴木コーチに采配を任せています。鈴木コーチもお若いので、込み入った場面では私に意見を求めてくれますし、それでいいと思っています」
21日には第二シードの都立の雄・城東と5回戦を戦い、10対0(5回コールド)と圧勝した。城東は春の大会でも対戦し、3対4で敗れた相手だった。これで東東京ベスト8である。
修徳学園中の教え子である武井壮からは、関係者を通じて「準決勝、決勝は応援に行きます」というメッセージが届けられたという。
選手たちの士気も高い。小宮は「自分たちにいい風が吹いているので、この勢いを落とさず勝ち上がって、小田川先生を胴上げしたい」と息巻く。
7月7日に62歳の誕生日を迎えた新監督は、「夏の空気はやはり違いますね」と晴れやかに語った。再び頂点を目指す道のりは、決して甘いものではないだろう。それでも自身の誇りと伝統校の再興をかけた戦いは、まだ始まったばかりだ。