遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(21)熊谷浩二 前編遠藤康の証言から読む>> 7月18日、ヤマハスタジアム。W杯のために中断していたJリーグ再開となったこの試合には、平日のナイターにもかかわらず13000人あまりの人たちが足…
遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(21)
熊谷浩二 前編
遠藤康の証言から読む>>
7月18日、ヤマハスタジアム。W杯のために中断していたJリーグ再開となったこの試合には、平日のナイターにもかかわらず13000人あまりの人たちが足を運んだ。昨季最終節、優勝を阻まれたジュビロ磐田との1戦。三竿健斗は「再開初戦がここでの試合というのは、いい巡り合わせ」と話している。先制点を許しながらも、ゲームを支配し、流れを引き寄せるような巧みな戦いができた。しかし、ベルギーへ移籍した植田直通、体調不良の昌子源を欠いた最終ラインは、一瞬のつきを突かれるように3失点を喫している。逆転を許した2-3から、土居聖真が同点弾を決める粘り強さで意地は見せたものの、13位に後退したリーグ戦の苦境は続く。
それでも、平均年齢25.45歳という若い先発メンバーたちは、自分たちのサッカーへの手ごたえを感じているようだった。この試合で1ゴールの安部裕葵は、現在の自分の立場を次のように語った。
「自分のコンディションのいい悪いという波はまだ多少あると思います。今はとてもいい感じでやれている。だけど、常に練習からコツコツ積み上げていくことが大事だと意識している。それを意識させてくれているのが、このチームのいいところだと思います。伝統のある鹿島というチームの一員になるという自覚は、高校卒業のころから持っています。そして、このチームで1年半が過ぎて、時間が経てば経つほど、自分はとても幸せな環境にいるんだなと、思う」
ジーコ氏のテクニカルアドバイザー就任が発表されたばかり。鈴木満強化部長は「1ランク上を目指すうえでジーコの力が必要だ」とその理由を語っている。アントラーズを支えるジーコスピリッツの再確認という意識もあるだろう。しかし、同時に「変わらなくちゃいけない部分もある」とも話した。
まさに、温故知新の夏が始まるのだろう。
鈴木優磨や町田浩樹、田中稔也など現在トップチームで活躍する若手選手たちをトップチームへ送り出したのが、2014年からユースチームを率いる熊谷浩二監督だ。
選手当時は
「ただ必死だった」と語る熊谷浩二
2000年、三冠達成時のレギュラーメンバーでもある熊谷監督だが、青森県三本木農業高校時代には、高校選手権出場経験もなかった無名選手だった。
1年目のリーグ戦出場11試合。U-20日本代表として世界大会にも出場する活躍を見せたものの、2年目からの4シーズンのリーグ戦出場数はいずれも一桁。長きに渡り、不遇時代を過ごした。
――そもそも、鹿島アントラーズ加入のいきさつというのは……。
「高校時代、サッカー部の先生から、『住友金属(現・鹿島アントラーズ)がお前に興味を持っているようだ』という話があったんです。でも当時はまだJリーグが始まる前で、プロリーグに対して、現実的なイメージを抱くのが正直難しい状態でした。だから、サッカーを続けたいという希望を叶えるには、大学へ行って、体育の教員免許を取得して……というのがリアリティのある話だったんです」
――そして、Jリーグ元年を迎え、住金は鹿島アントラーズとなり、ファーストステージで優勝しましたね。
「ちょうど高3だったんですが、もしも鹿島に入れるなら、プロへ行きたいというふうに考えられるようになりました。そして、先生に『あの話ってまだ生きていますか?』と確認したんです。とはいえ、その可能性が高いと思っていたわけではなくて、大学へ進学するんだろうなと考えていました。そしたら、『なんとかなるかもしれない』という話を頂いて。本当に最後のほうでしたが、鹿島入りが決まったんです」
――プロへたどりついたという感じですね。
「はい。まさにたどりついた(笑)。でも、鹿島に入って最初に思ったのが『ここに来なければよかったな』ということ。まずレベルが違うし、場違いだったから。辛かったけれど、自分が希望したことだし、置いてもらえる間は一生懸命やろうと割り切って考えていましたね」
――1年目はリーグ戦11試合に出場し、U-19代表入り。1995年にはワールドユース(現U-20ワールドカップ)にも出場しますね。松田直樹氏や中田英寿氏など錚々たるメンバーが揃っていました。
「雑誌で見ていたような選手ばかり。まあ、彼らと自分は違う、自分は自分のやれることを精いっぱいやるだけだと思っていました」
――しかし、鹿島では2年目以降はなかなか試合に出られなくなりましたね。
「当時はサテライトリーグというのがあり、いわゆるBチームがそれに出場するので、チーム選手の人数も今と比べれば、かなり多かったこともあって、なんとか居場所があったという感じだったと思います。僕自身は、本当に毎日ついていくのが精いっぱいという感覚でした。青森の高校時代に培った自信、プライドは鹿島へ来てすぐ、初日に全部崩されてしまった。でも、それがよかったんだと思います。だから、プライドを持つことがなかった。鹿島にはブラジル代表の10番だっている。そのうえ、毎年、高校ナンバー1とか、大学ナンバー1の選手が加入してくる。そうなるとチーム内での自分の順列というのが下がるわけです。だけど、彼らは自分とはまったく違うんだと思えたので。もちろん、1年目の試合出場経験があったので、『またあの場に立ちたい』という気持ちもありました」
――2000年に24試合出場するまでの長い間、いわゆる控え選手だったわけですが、何が熊谷選手を支えていたんでしょうか?
「単純にこの鹿島というチームに居させてもらえる、ここに適応する可能性があるんだという希望というか、そういう意味でのプライドはありましたね。レベルの高い環境で、味わうのは自分の力のなさや課題ばかりです。鹿島に来る選手は、僕が抱く課題なんて飛び越えたレベルの選手。当然、焦りもありましたし、心の余裕はずっとなかった。それが僕の選手生活です。そういう苦しさがついて回っていたけれど、同時にたとえそれが小さなものであっても、課題を克服し、自分の成長を実感できるという喜びもありました」
――厳しいけれど、手ごたえも感じられる環境だったと。
「環境については非常に感謝しています。とにかく、先輩や同年代の仲間だけでなく、後輩が常に刺激を与え続けてくれましたから。同時にクラブとして、『選手を育てる』というスタンスがあったので、僕のような選手に対しても時間を与えてくれた。なおかつ、鹿嶋という地域柄、あまり誘惑もなく、サッカーに専念するしかない。本当に環境に助けられたし、成長することの喜びをモチベーションにできる力を養ってもらえたかなと」
――敵わないなと思うチームメイトのなかで、劣等感を抱くことはなかったですか?
「劣等感……とはちょっと違うんですが、まあそういう差があるんだということを受け入れる、認められるかが大事だと思います。自分がどうしたって敵わない才能のある選手がいる。でも、そういうなかでもチームのために、自分ができることはなにか、力が発揮できることはなにか、チームメイトに負けないものはなんなのかを、本気で追求しなくちゃ生き残るのは難しい。ほかの選手との違いを発揮するしかない。そのうえで、自分が抱いた劣等感を認められるかだと思います。当時は毎日ただ必死で、精いっぱい今日を生きる、今日力を尽くすことだけでした」
――そして、2000年の三冠に。
「最初のタイトルがナビスコカップ(現ルヴァンカップ)だったんですが、自分が決勝戦に出て、タイトルを獲れた時点で信じられない状態でした。決勝に至るまでの間が、代表選手不在で戦ってきたので、まあ、試合に出ることができた。でも、決勝は代表もいる。そういうなかで決勝でも試合に出て、優勝し、チームのために仕事ができたわけです。ずっと夢見たというか、望んできたものが叶った瞬間でした。だから、もうナビスコ優勝だけで飛び上がるほどの喜びがありましたね。でも、リーグ戦も残っているし、天皇杯もある……三冠なんて想像もできなかったけれど、ポンポンとタイトルが獲れて……」
――報われたシーズンとなったわけですね。
「報われたというか、出来過ぎな感じの1年でしたね」
――当時、小笠原満男選手たち若手の勢いもありましたよね。
「そうですね。たとえば、Bチームとの紅白戦では、主力組の選手のなかには『コンディション調整』という感覚でプレーする選手もいたと思うんですけど、僕はそういう感覚で練習できなかった。わずかでも力や気持ちを抜いてしまうと、ポジションを奪われてしまうという意識が強かったので。たとえ1試合、ケガなどで休んだら、次はないという気持ち。毎日、毎日が勝負。先を見ることなんてなかったです」
――シーズンオフはホッとできるんですよね?
「3日間くらいですかね(笑)。ほかの選手が休んでいるときから、準備を始めないと間に合わないから。本当に、楽しいと苦しいとの両面をもった現役時代でした。苦しいけれど、サッカーが好きで、このチームが好きだったから、あそこまで夢中になれたんだと思います」
――2004年途中に当時J2だったベガルタ仙台へ移籍することに。
「自分にとっても、鹿島にとっても、お互いが次のステップへ行くためにそうしたいと思ったんです。そこまでに至る過程で、僕を成長させてくれたこの環境を与えてくれた人たちやクラブのことを考えたときに、迷惑をかけたくはないなと。僕自身も試合に出るために次の場所へ行けるチャンスがあり、スムーズにことが運ぶのであれば、こういう決断、終わり方が、お互いにとって幸せかなと。それだけのことをしてもらったから」
(つづく)