赤いアンダーシャツから厚みのある二の腕をむき出しにして、彼は黙々とバットを振っていた。小窓から陽が差し込むその場所…

 赤いアンダーシャツから厚みのある二の腕をむき出しにして、彼は黙々とバットを振っていた。小窓から陽が差し込むその場所は、岩手県胆沢郡金ヶ崎町にある、今は廃校となった二ッ森小学校の跡地だ。かつては体育館として使用していたという空間に快音が響く。打撃マシンから放たれるボールひとつひとつを、彼のバットはかみしめているかのようだった。

 創部7年目にして初めて、都市対抗本大会(東京ドーム)への出場権を手にしたトヨタ自動車東日本の大谷龍太(コーチ兼外野手)は、今夏の東京ドームの主役のひとりだ。



かつては独立リーグでプレーしたこともある大谷翔平の兄・龍太

 野球部が発足したのは2012年春。当初は関東自動車工業硬式野球部として始動した。正確に言えば、部の”復活”である。もともと、関東自動車工業は静岡県を拠点に活動していたが2005年に休部。7年後に、同社岩手工場を拠点として岩手県の金ヶ崎町で再び野球部は動き出したのだ。

 その年の夏、トヨタグループとの統合によって現チーム名に。12年秋の日本選手権予選から本格的に公式戦に参戦するわけだが、選手13人でスタートした発足当時は苦労の連続だったという。チームの1期生である大谷は言う。

「2年目ぐらいまでは夜勤明けや出勤前の朝に練習することもありました」

 専用グラウンドはない。今でも小学校の体育館を改装した室内や校庭跡地で練習する日々。社会人野球のチームとしては、厳しい環境である。

 試合をすれば敗戦が続いた。オープン戦では岩手県内の大学に負けることもあった。それでも、選手たちは仕事と野球に真正面から向き合った。野球ができる喜びを感じながらバットを振り続け、ボールを追い続けた。大谷にとっても故郷で発足したチームへの思いは強い。

 岩手・水沢南中学時代に軟式野球部に所属した大谷は、高校は地元の県立高である前沢高校に進学した。

「センターかサードを守って、4番を打っていた中学のときは、活躍して有名な高校に誘われるような選手になりたいと思っていました。でも、自分自身の実力がなかったですし、チームも弱かった。身長が伸びたのも、中学最後の大会が終わってからでしたし……」

 一般受験で入った前沢高校では、主に3番を担った。高校最後の夏は3勝したが、甲子園は程遠かった。その年、2005年夏の岩手を制したのは、就任間もない佐々木洋(ひろし)監督が率いる花巻東である。もしも、その県優勝校に進学していたら……。高校選びで「花巻東の話がなかったわけではなかった」と言う大谷は、苦笑いを浮かべてこう語るのだ。

「もう少し早く佐々木監督と出会っていたかもしれませんね」

 いずれにせよ、全国とは無縁だった高校時代を経て、卒業後の大谷は地元企業へ就職した。

「まだまだ、自分はできる」

 その思いに突き動かされて、工場勤務の傍ら、水沢市(現・奥州市)を拠点に活動するクラブチームの水沢駒形野球倶楽部で野球を続けた。

「クラブチームでやっていたときは、企業チームから引き抜かれるぐらいの選手になろうと思ってやっていました。でも、なかなか思うような練習もできない環境だった。『もうちょっとできるんじゃないか……』という思いがあるなかで、ちょうど独立リーグの存在を知って応募してみようと思いました」

 自分の可能性を信じた大谷は、四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに自身の野球人生をかけた。高校卒業から丸3年が過ぎた頃である。

 当時を思い出しながら、大谷はこう語るのだ。

「四国へ行ったときは、プロをイメージしていました。プロ野球は小さい頃からの夢。実力はなかったんですけど、やるからには上を目指したいと思っていました。でも正直、高校までは野球を本格的に教わったことがなくて、独学みたいなところがありましたからね。四国では、1年目から試合で使ってもらっていましたが、毎日のように監督やコーチに怒られていましたね」

 結局、高知ファイティングドッグスでは2年間プレーした。大谷自身は3年目も契約するつもりだった。ただ、ちょうどそのとき、地元・岩手で新たに動き出そうとしていた企業チームへの誘いがあった。

「1カ月ぐらい悩みました。でも、社会人野球における企業チームが少なくなっているなか、新たなチームで野球をやってみたい。しかも、地元のチームということで、お世話になろうと思いました」

 その決断から7年、大谷はやっと全国の舞台に立つ。

 時を同じくして、弟がメジャーに挑戦したのも不思議な巡り合わせといえるだろうか。

 ご存知の方も多いと思うが、大谷の弟はアナハイム・エンゼルスでプレーする大谷翔平である。兄・龍太が7歳離れた弟を語る。

「翔平の幼少期のことをよく聞かれるんですけど、僕は僕で野球をやっていましたし、7歳違いますからね、正直あまり一緒にいる時間がなかったですし、一緒に野球をやることもなかったんです。だから、花巻東時代の翔平の試合を見たのも1回だけ。その唯一の試合が高校最後の夏、岩手県大会決勝で負けた試合でした」

 兄弟ゲンカをする年齢差でもなかったし、同じ時間を共有することもほとんどない。それでも、兄にとっての弟は可愛い存在。だから、弟の話をされても「ぜんぜん嫌だと思ったことはないですよ」とサラッと言う。

「家に帰ってくれば、ただの普通の弟なんですけどね。でも今は、メジャーリーガーになっちゃったので、テレビを見ていると不思議な感じです。家族ではありますけど、いちファンとして応援しています」

 打順は長らく4番を務めていたが、今夏の都市対抗東北二次予選前から1番に定着した。

「1番になったからといって、自分のスタイルを変えるつもりはありません。僕は長距離砲ではないので、ツーベース、スリーベースヒットを打てるバッターをこれからも目指していきたい。東京ドームでも、自分のスイングをしたいですね」

 プレッシャーはない。「自分たちの野球をやるだけ」と言う大谷は、1回戦(東芝戦)の7月17日、自身初となる東京ドームの打席を迎える。