小3にして父と張良コーチと本格的な卓球へと足を踏み入れた森薗美月。小6でライバル視していた前田美優に競り勝ち、カデットで初優勝を果たす。日本一に立った後に選んだのがJOCエリートアカデミーだ。ここで第2の転機を迎える。夢の舞台、JOCエリー…

小3にして父と張良コーチと本格的な卓球へと足を踏み入れた森薗美月。小6でライバル視していた前田美優に競り勝ち、カデットで初優勝を果たす。日本一に立った後に選んだのがJOCエリートアカデミーだ。ここで第2の転機を迎える。

夢の舞台、JOCエリートアカデミーへ。何をやっても上手く行かない日々

森薗が強くなるために選択した進路は、JOCエリートアカデミーだった。

中1から高3まで全国から将来有望な若手選手を集めて世界に通じる選手を育成する組織、いわゆるアスリートの「虎の穴」である。全寮制で近隣の学校に通い、放課後は味の素トレーニングセンターで練習をする。卓球界ではアカデミー出身者は平野美宇、張本智和らがいるが、森薗はその2期生になった。

「当時はジュニアサーキットに出場したかったですし、やっぱりエリートアカデミーに呼ばれることはそうないと思うんです。それで行ってみたいと思って」

地元・愛媛を離れ、東京の寮生活が始まった。だが、そう簡単にはいかなかった。

友人関係も変われば食事も変わる。何から何まで周囲の環境が変わっていくことはだが12歳の森薗にとっては苦しいものだった。



もともと一人っ子だった森薗は団体での生活も初めてだ。女子は2歳上の先輩が3人いるだけだ。気軽になんでも話し合える同世代の女子選手がおらず、親に「苦しい」と切り出すことも恥ずかしくてできない。初めての経験する団体生活に悩みは募るばかりだった。

「日常生活がうまくいかない。そこで消耗し切っているので卓球もうまくいかない。でも、それが自分では理解できていなかったので『なんでやろ』ってずっと悩んでいました。そんなんだから練習にも身に入らず、気持ちがどんどん落ちていったんです……」

無論、アカデミーでは、コーチや練習パートナーや練習方法について独特のカリキュラムがあり、卓球の腕を鍛え上げるには最高の環境が整っている。だが、日常生活に慣れない限り「最高の環境」を十分に活かすことは難しい。他の選手が当たり前のようにアカデミーの生活に馴染んでいく中、森薗だけが取り残されたような気持ちになることもあったという。

「うまくなろうと卓球ばかりしていたら消灯時間を守らないと怒られたり、もうすべてがチグハグ。小6で優勝したカテットも中1ではベスト16に終わって……。結果が出ないし、なぜ負けたのかも分からない。もう決勝が終わるまで号泣でした」

10代のアスリートにとって、難しいのが精神的なケアだ。競技者としてのスキルに精神的な成長が追いついていないことがある。特に環境が劇的に変わるとそのギャップがジワジワと顔を出す。幼少期から競技に打ち込んできた選手であればなおさらだ。「故郷から出てきたのから強くならないと」と肉体的にも精神的にも負荷をかけすぎたのだ。

「苦しかったですね。私は小学校から卓球しかしてこなかったから卓球がすべてなんです。卓球で負けたらこの世の終わりみたいな感じ。その卓球がうまくいかないので気持ちの余裕がなくなり、周囲に気を遣えない。それで周りにも迷惑をかけて…」。負のスパイラルの渦中にいた。

中1の2月、全日本選手権が終わって1カ月後に森薗は愛媛に帰ることを決めた。

「帰っておいで。どこでも卓球はできるよ」

その言葉に森薗は涙が止まらなかった。両親は、それまで我慢していた森薗を温かく迎えてくれた。



張コーチと父と取り戻しかけた自信。襲いかかるさらなる試練

愛媛に戻った森薗は、松山市旭中学に転校したが卓球部がなく、えひめTTCに戻り、張コーチと父と3人で再スタートを切った。幼少期から慣れた環境でプレーすると卓球の調子が戻ってきた。一方、苦しい1年を経て森薗の中に変化が見られた。練習方法やプレーについて父に意見を言い、話し合いで解決できるようになったのだ。卓球に対して指示されるばかりではなく、自分から何かを掴みにいく姿勢に変わりつつあった。

「愛媛に帰って元に環境に戻ると『自分は本当に自分中心でやらせてもらっていたんだな』って思ったんです。でも、それだけじゃいけない。自分がやるんだから、自分で考えないといけないって思うようになったんです」

それは、選手としての自我の芽生えだった。

卓球に自主的に意欲的に取り組むようになると調子が戻り、中2の全中シングルスで準優勝を果たした。

しかし、トライアングルの強化体制は長くは続かなかった。中2の終わりに張コーチが名門・青森山田で指導することが決まったのだ。「全面的な信頼を置いていた」コーチの突然の転任は、森薗の卓球に大きな影を落とした。

「ショックでした。どうしたらいいのか分からなくなり、不安ばかりが募りました」

新コーチの指導に馴染めず、動き出した上昇カーブも平行線をたどるようになり、中3の全中はベスト8にとどまった。

中学を卒業し、大阪の強豪・四天王寺高校に進学しても停滞感と閉塞感を打破することはできなかった。むしろ、小学校時時代からの“癖”がひどくなった。

「小さい時から無意識に自分と他の選手を比較してしまうんです。高校に入って練習環境が変わっても変わらなかったですね。あの選手は頑張っていい成績を残しているのに、私はこんな成績しか残せていないと思ってしまう。それで劣等感を感じて落ち込んでしまう。意味のない比較を続けていたんです」

練習中は相手のことばかり気になり、身が入らなくなった。その結果、高2の時の全日本卓球選手権で、卓球の神様は厳しい現実を突きつける。過去1度も負けたことがなかった上野有希に初めて敗れたのだ。集中力の欠如が招いた結果だが、森薗は失意の底に突き落とされ、卓球に対して前向きになれなかった。

「卓球したくないなって思っていました」

そんな矢先、卓球の神様はさらなる試練を課す。ある日の練習のことだった。自分の後ろで“パンッ”と大きな音がした。背後にいるコーチと足がぶつかったのかと思ったが、振り向くと彼は遠くにいた。その刹那、右足から力が抜けた。ゆっくりと視界が傾き、床に倒れる。右アキレス腱の部分断裂だった。

取材・文:佐藤俊(スポーツライター)、写真:伊藤圭
撮影地:中目黒卓球ラウンジ