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シリーズ「もう一度投げたかった」──野村弘樹(後編)
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1998年に13勝を挙げ、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)の日本一に貢献した野村弘樹を、翌1999年の春にヒジ痛が襲った。
症状の回復を信じて手術に踏み切るも、ヒジの状態は回復せず。日常生活にも支障をきたすほどの痛みを抱えながら、ついに野村は引退のマウンドに上がる。
2002年の引退登板後、佐々木主浩(当時マリナーズ)から花束を受け取る野村弘樹
──左ヒジに痛みを抱えながら、野村さんは手術の翌年から一軍で投げています。2000年は29試合に登板(先発登板は14試合)し、2勝8敗、防御率4.38。2001年は14試合に先発して4勝5敗、防御率4.44という成績を残しています。
野村 毎試合、毎試合、痛み止めのボルタレンを3、4錠飲んで、ごまかしながら投げていた。痛みを取るために、気功の先生を訪ねたり、歯の噛み合わせまで治したり……。さまざまな治療を試しましたが、効果はありませんでした。
プロ野球選手にとっては、痛みがなくなって100パーセントの力で投げられるようになって初めて「成功」なんです。手術自体は成功でも、投げられなければ意味がない。僕の場合は最後まで戻らなかった。手術が合わなかったということなんでしょうね。
──2002年の登板数はわずか3(0勝2敗、防御率13.50)。そのシーズン限りでユニフォームを脱ぐことになりますが、手術から引退の日まで、野村さんはどんな生活を送っていたのでしょうか?
野村 ずっとヒジ中心の生活です。何よりもまず、ヒジのことを考える。普通の生活さえままならなかった。ヒジが曲がらないから、何をやってもストレスばかりで。蛇口をひねるのがつらい。ドアも開けられない。髪も体も満足に洗えない。トレーニングではヒジを鍛えるのに、普通の生活ではなるべく使わないようにしていました。練習中ならまだしも、普段の生活でヒジを痛めるわけにはいかなかったから。
もしかしたら、普段からもっとヒジを使えばよかったのかもしれない。今振り返ると、過保護にしすぎたのかなとも思いますね。でも、当時はヒジをかばいながらの生活しかできなかった。故障は自分で乗り越えなければいけないもの。チームにもチームメイトにも迷惑をかけているのはわかっていました。「申し訳ない」という思いはありましたが、今できることをやるしかない。そう気持ちを切り替えることで、少し楽になったのは事実ですね。
──その頃はどんな思いでマウンドに上がっていましたか?
野村 できるだけ勝てる可能性を残しながら、中継ぎのピッチャーに交代したい。チームに迷惑をかけないことを心がけていました。自分のボールを投げ込むことだけに集中するしかなかったですね。
──バッテリーを組んでいた谷繁元信捕手は10代の時からよく知る間柄でしたね。
野村 シゲ(谷繁)はコンディションを見ながら配球を組み立ててくれました。でも、状態が悪い時は、どうにもしようがない。ヒジが痛い時にはガンガン打たれました。ごまかしながら投げていることはバッターも知っているので、もう抑えられなくなった。いつも不安で不安で仕方がなかった。ストライクを投げることはできましたが、腕の振りもスピードも全然で……。
──グラウンド以外の生活にも変化はありましたか?
野村 食事を根本から見直すことに決めて、野菜はすべて無農薬に、卵は烏骨鶏(うこっけい)にして、白米の代わりに玄米を食べるようにしました。キャンプ中から徹底してやりましたよ。いつから効果が出るのか、そもそも効果が出るかどうかもわからない。でも、やらないよりはやったほうがいいと思って。嫁さんには迷惑をかけました。キャンプ地に卵を送ってもらって、自分の部屋に電子レンジを置いて茹でて食べました。毎日のことなので、かなりストレスがかかりましたね。
──引退を決めたのはいつですか?
野村 2002年4月の時点でもう引退することを決めました。まだ開幕したばかりだったので「ちょっと待て」と慰留されたのですが、もう無理でした。
──2002年10月13日が最後のマウンドになりましたね。
野村 引退登板の日が決まって、リハビリを始めました。引退を決めたら痛みが消えると聞いたことがあったのに、全然そんなことなくて「やっぱりダメだな」と思いました。むちゃくちゃ痛かったので、引退試合で涙も出ませんでした。
引退することに対する悔し涙はなかったですね。もちろん、悔いはあったんですが、それよりも「もう投げなくてもいい」という思いのほうが強かった
──この時はまだ33歳で、通算勝利数は101。周囲からすれば早すぎる引退でした。
野村 テレビ取材のクルーがカメラを構えていたんですが、「感動的な場面がないんですが……」と言われてしまいました。でも、実際にそうなんです。もう痛くて痛くて。取材に対しても「全然悲しくない。もう投げなくていいから、スッキリしている」と答えたのを覚えています。
──あらためて現役生活を振り返ってみて思うところは?
野村 小学2年生が野球を始めた時から、楽しく野球をした記憶はありません。野球は”やらなければいけないこと”で、練習もやらされていた部分が間違いなくあった。父親が広陵高校野球部のOBでしたからね。
PL学園時代には、甲子園で1回戦負けすることなんか考えられなかった。勝った瞬間だけはうれしいと思ったけど、野球を楽しいとは感じなかった。僕が頑張ることができたのは、マウンドで恥をかきたくなかったから。楽しく投げたいというのと、恥をかきたくないと思って必死で投げるのとでは、結果は大きく違うでしょう。それでも打たれることがあるのが、野球の難しいところなんですが。
今でも、イベントなどでマウンドに上がることがありますが、野球が楽しいと感じたたことはありません。サントリードリームマッチで東京ドームのマウンドに上がる時も、「打たれるのは恥だ」と思っています。あの満員の中で恥をかきたくない。お祭り的なイベントでも、バッターに打たれるのは嫌ですからね。