日本のプロ野球は開幕してから約2カ月が経ち、四国アイランドリーグplus、BCリーグなどの独立リーグもスタートする…
日本のプロ野球は開幕してから約2カ月が経ち、四国アイランドリーグplus、BCリーグなどの独立リーグもスタートするなど、本格的な野球シーズンに入った。海の向こうアメリカでも、4月は異常気象の影響で試合中止が多発したが、今はメジャー、マイナーとも各地で熱戦が繰り広げられている。
そのアメリカでは、5月になると”第2の開幕”を迎える。北米大陸は幾重にも重なるマイナーのシステムのほか、独立リーグが各地に散らばっている。独立リーグは他国のプロリーグと比べて遜色のないものもあれば、プロとは名ばかりで「硬式球を使った草野球程度」のものまで、レベルは千差万別だ。
独立リーグは、メジャーのキャンプが終わったあとから本格的に動き出す。メジャーの40人枠に漏れた選手のなかには特定球団とのマイナー契約を嫌がる者がおり、そういう選手から順にレベルの高い独立リーグにピックアップされていく。
そのなかのひとつカンナム・リーグ(Canadian-American Association)は、その名の通りカナダとアメリカで展開される独立リーグだ。近年はキューバのナショナルチームや日本からも四国アイランドリーグplusの選抜チームがスポット参戦。今シーズンはキューバだけでなく、ドミニカのチームもリーグに参加する予定なっている。
このリーグのレベルはマイナーの2Aと同等と言われ、かつてメジャーや3Aでのプレー経験があるベテラン選手や、夢をあきらめきれずにメジャーへ再挑戦する若いプレーヤーが数多く存在している。

ダイエー時代の91年にシーズン42盗塁をマークし、盗塁王に輝いた大野久氏
そんなリーグに、今回挑戦する日本人がいる。ただし、選手としてではなくコーチとして、だ。
大野久――その名を知る野球ファンは、今となってはそう多くないかもしれない。しかし、かつて所属していた阪神タイガースの本拠地のある関西圏では、いまもファンからサインを求められることがよくある。そのためか、現役引退後に10年間住んでいた故郷の茨城を離れ、現在は大阪に拠点を置いている。
「僕の場合は、しばらく表に出ていませんでしたから。それで珍しがられるんですよ」
表に出ない間、大野は波乱万丈の人生を送っていた。
茨城の名門・取手二で甲子園出場を果たし、東洋大学では全日本大学選手権で準優勝。大学卒業後は社会人の名門・日産自動車(現在は廃部)に進み、都市対抗を制し、日本代表にも選ばれるなど輝かしい球歴を誇った。
野球ファンに知られているのは、阪神に入団後(1985年ドラフト5位)に”少年隊”のひとりとしてブレイクしてからのことだろう。
88年に就任した村山実監督は、大野をはじめ、売り出し中だった和田豊、中野佐資(さとる)の3人を、当時のトップアイドルグループになぞらえて”少年隊”と命名した。
この年、大野は130試合に出場するなどレギュラーポジションをつかむと、翌年には3割をマーク。福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンク)に移籍した91年には盗塁王に輝いた。しかし、この年が選手生活のピークで、中日に移籍した95年限りで現役を引退する。
引退後は中日の二軍コーチを務めるが、2シーズンで契約を解除。職を失い、途方に暮れていたところに、古巣・阪神の元コーチから「1年待てば……」という条件付きで指導者の打診を受けた。だが、これもフタを開けてみれば監督人事が変わってしまい、結局話は流れてしまった。
なす術(すべ)なく、出身大学に足を運んだ大野を待っていたのは、付属高校である東洋大牛久高校の野球部監督の話だった。
しかし、当時は元プロの人間が高校野球の指導者になるには教員になる必要があった。聞けば、学校側は「野球部を引き受けてくれる教員」を求めており、大野が教員免許を取得するまで待ってくれるという。その言葉に一念発起した。大野は大学に再入学し、教員免許を取得。規則に従い、2年間の教職期間を経て、2003年に晴れて高校野球の監督となった。
「それまでは学校にいても、野球部の指導は一切禁止。でもまあ、選手とは授業で接するんですけどね。”総合的な学習の時間”というのがあって、そこでは野球の話ばかりしていました」
野球部の監督になると、当然のことながら甲子園を目指した。しかし、このことが大野を職員室で孤立させてしまう。
「もう学校では1人対120人みたいな感じでした」
現場に出て初めて、学校が求めているのは”野球部の強化”ではないことを知った。大野が強化に一生懸命になればなるほど、職員たちの顔が曇った。
「元プロの監督がほしいんだと思って赴任したんですけど……学校側は別に誰でもよかったみたいです。彼らがほしかったのは”野球部を引き受けてくれる教員”であって、決して”元プロ監督”ではなかったんです」
野球部の強化を目指した大野は理事と対立してしまい、ついには監督の職を外されてしまう。新年度が始まってしばらくは一教員として過ごしたが、理事に浴びせられたひと言で大野の気持ちは完全に折れ、夏休みが終わったあと、学校も辞めてしまった。
「『ウチは甲子園なんて行かなくていいんだ。監督ではなくなったが、一教員としてやっていけるんだからいいじゃないか』と。さすがに限界でした」
失意の大野は、オーストラリアへ渡った。そこで現地の高校生に野球を教えることになった。
「向こうでは週2回、選択科目でスポーツの授業があるんです。そこで野球を教えていました」
しかしそれも長くは続かず、3年前に大野は帰国した。
「もともと妻が事業をしていた関係でオーストラリアに行ったのですが、妻が『もう日本に帰りたい』って言うので、戻ることにしました」
幸い、オーストラリアで野球の指導をするかたわら、夫人の事業を手伝い、それなりの成功を収めていた。その事業は他人に譲り、以降は講演活動をしながら自ら設立した社団法人で野球を通じた社会貢献を模索していた。
かつて過ごしたオーストラリアでは、社会的に成功を収めた人間は50歳を超えるとそれまでの職を辞し、自分の好きなことをして余生を過ごすケースがよくある。その「好きなこと」も個人的な趣味というよりは、社会的貢献度の高い活動であることが多い。それを目の当たりにしてきた大野も、ゆったりしたペースで野球に関わっていきたいと思っていた。
そんなことを考えていた矢先、大きな転機が訪れた。2年前に日本で開催されたアメリカ独立リーグのトライアウトの際に知り合ったエージェントの吉田大祐との再会が、大野を突き動かした。
吉田はカンナム・リーグのニュージャージー・ジャッカルズでコーチ業もしており、自分もそこでコーチ修行をしたいと頼み込んだのだ。
吉田の口利きもあり、球団からOKは出たが、その条件というのが、ギャラなし、渡航費は自前、住居は球団と交渉中で、うまくいけばホテル、そうでない場合はホームステイ、それもダメならエージェントの自宅に居候という過酷なものだった。
それでも大野はこの条件で受けた。「次へのステップのためだから気にならない」と大野は笑う。むしろ世話をしてくれたエージェントと受け入れてくれた球団に感謝していると言う。
「まだ実際に見ていませんし、聞いた話だけで、ほとんど想像ですが、カンナム・リーグは独立リーグのなかでも可能性のある人たちが多くいるリーグだと思います。エージェントの話によると、あと走塁の技術が身についたらメジャーの可能性もある選手がいるとのことです。
そういう選手が、もし3Aやメジャー、さらには日本に助っ人として来たときに『誰に教わったんだ?』ってなるでしょ。そのときに僕の名前が出てくれば嬉しいですよね。それに、日本の12球団ともコネクションがあるので、橋渡し役もできるんじゃないかなと……。とにかくアメリカに行って、『あの日本人コーチ面白いね』となれば最高ですよね」
そう熱く語る大野の表情は、しばらく離れていた現場に戻れる喜びに満ちていた。この独立リーグでの指導経験を足がかりに、プロレベルの選手の移籍に関わるだけでなく、日本からアマチュアの選手を世界に送り出すことも考えている。
「僕が大学を卒業した頃は、プロでなくても行き先はいくらでもあったんですよ。だからレギュラーでなくても社会人に行って、野球ができました。でも、今はないでしょ。僕の感覚では、25、26歳になれば地に足をつけなくてはいけないと思うので、その歳で独立リーグ挑戦というのもどうかなというのがあるんですが、今は30歳ぐらいまでは自分の可能性を求めるのもアリかなと……。とはいえ、引退後の人生の方が長いので、若い人には野球だけでなく、いろんな経験をしてほしい。その橋渡し役もしたいと考えています」
アメリカでは初めての指導となるが、英語でのコミュニケーションについては「いやぁ、オーストラリアとアメリカの英語はずいぶんと違うらしいですから……」と言うが、指導の際、大きなアドバンテージになることは間違いない。
カンナム・リーグは5月18日に開幕したが、ビザの関係で大野の活動はアメリカ国内のみ。地元でのコーチデビューは25日になる。かつてNPBで盗塁王を獲った男の走塁技術はチームにどこまで浸透するのか楽しみだ。