証言で明かす荒木大輔がいた1980年の高校野球プロローグ1年生から早稲田実業のエースとして活躍した荒木大輔 松坂大輔が横浜(神奈川)のエースとして甲子園に乗り込み、センバツに続いて全国選手権も制した1998年の夏。その大会で聖地に足を踏…

証言で明かす荒木大輔がいた1980年の高校野球
プロローグ



1年生から早稲田実業のエースとして活躍した荒木大輔

 松坂大輔が横浜(神奈川)のエースとして甲子園に乗り込み、センバツに続いて全国選手権も制した1998年の夏。その大会で聖地に足を踏み入れた55校の野球部員の中には、14人もの「大輔」がいた。

 1980年9月13日生まれの松坂の名前が、ひとりの甲子園球児からとられたことはよく知られている。身重だった松坂の母が荒木大輔の姿に惚れ、我が子に「大輔」と名付けたのだ。松坂がもし「大輔」という名前でなかったならば、1998年夏の甲子園のあの伝説もまた違ったものになっていたかもしれない。

 1980年夏、早稲田実業(東京)の背番号11をつけて甲子園のマウンドに立った16歳の荒木の人生は、初戦の北陽(大阪)戦での勝利によって大きく変わった。地方予選のチーム打率が出場校のなかで最高の.374と強打を誇った優勝候補を、わずか1安打で完封してみせたのだ。その試合の前後について、荒木本人はこう語っている。

「甲子園に出場しても、特に騒がれることはありませんでした。予選の東東京大会で投げましたが、『甲子園には先輩たちに連れてきてもらった』と感じていました。でも、北陽戦のたった2時間で、早実の周りだけが別の世界になってしまったのです」

 高校野球きっての名門・早稲田実業の1年生投手が素晴らしいピッチングを見せたことで、報道陣は色めき立った。名だたる強豪校の上級生たちに果敢に挑む姿も見事だったが、クールなマウンドさばき、端正なマスクと涼しげな表情が、テレビの前の女子高生をはじめ、多くの女性ファンを魅了したのだ。「汗まみれ」「泥だらけ」のイメージが強い高校球児のなかにあって、荒木は異彩を放っていた。

 北陽戦の後は宿舎の前に人だかりができ、選手たちは身動きが取れなくなった。北陽戦の観衆は4万4000人だったが、その5日後に行なわれた東宇治(京都)との2回戦には5万8000人が押し寄せ、甲子園がふくれ上がった。

 1980年に62回を数えた夏の全国選手権では、1年生が活躍することは決して珍しいことではなかった。古くは、早稲田実業の王貞治が1956年の夏に甲子園出場を果たし、1977年の第59回大会では「バンビ」と呼ばれた東邦(愛知)の坂本佳一が人気を集めた。だが、荒木の残したインパクトは、先人たちのそれとは別種のものだった。

 荒木が高校に入学する前の1979年、プロ野球と甲子園では歴史的な出来事が立て続けに起こっている。

 1978年のドラフト会議直前に、「空白の一日」で読売ジャイアンツと入団契約を交わした江川卓がプロ野球デビューを果たした年であり、その年のシーズンには、江川の身代わりとなって阪神タイガースに移籍した小林繁が22勝を挙げ、最多勝のタイトルと沢村賞を受賞した。

 高校野球では、尾藤公(びとう・ただし)監督に率いられた箕島(みのしま・和歌山)の選手たちが躍動。センバツで日本一に輝くと、夏の全国選手権では3回戦で星稜(石川)との延長18回の激闘を制し、そのまま頂点まで登りつめて春夏連覇を達成した。これは、史上3校目(当時)の快挙だった。

 そして、1979年の野球シーズンを締めくくったのが、広島東洋カープと近鉄バファローズによる日本シリーズだ。1975年に球団創設以来初となるリーグ優勝を飾ったカープはこの年、2度目のセ・リーグ制覇。ブルペンにはリリーフエースとして江夏豊が控えていた。3勝3敗で迎えた第7戦、ゲームセットの瞬間にマウンドで両手を挙げて飛び上がったのは、その江夏だった。この試合の9回裏の攻防は「江夏の21球」としてプロ野球の伝説となり、いまも語り継がれている。

 その翌年、野球界に降臨したのが「甲子園のアイドル」だった。

 40年近く前の高校野球は、今よりもはるかに泥だらけで男臭かった。球児たちはストレートに喜怒哀楽を表現していて、試合後にグラウンドで泣き崩れる選手はいくらでもいた。当時も大会関係者によって派手なガッツポーズはいさめられたが、それでも勝利した高校の選手たちは拳を突き上げて喜びを爆発させたものだ。

 当時、まだ中学生だった私には、甲子園球児たちは荒々しく凶暴にすら見えた。あからさまなラフプレーも頻繁に見られたし、デッドボールを当てられた打者が投手をにらみつける場面も少なくなかった。額に青々とした剃りこみを入れ、ピンピンに眉毛を細く尖らせた選手もたくさんいた。

 中学生には「荒くれ者」に見えた球児が集まる甲子園で、いかつい強打者たちをストレートとカーブだけで打ち取っていく荒木の姿は異質だった。相手の闘志を軽く受け流す1年生投手には冷静さが備わっていた。高校入学後の5月に16歳になったばかりの少年は、2回戦以降も初戦と変わらない落ち着いたピッチングを見せた。

 大会前、優勝候補に名が挙がらなかった早稲田実業は、荒木に引っ張られるように、一戦ごとに力をつけていった。2回戦は東宇治に9-1、3回戦は札幌商業(南北海道)に2-0、準々決勝は興南(沖縄)に3-0で勝利。準決勝では瀬田工業(滋賀)を8-0で撃破し、決勝まで駒を進めた。

 荒木は準決勝を終えた時点で44回3分の1を投げ、失点ゼロ。あと1イニングを無失点に抑えれば、連続無失点の大会記録を更新することになっていた。しかし、決勝で待ち構えていた、愛甲猛率いる横浜打線に初回から捕まり、3イニングで5点を奪われて敗れた。

 1年生の夏の甲子園で準優勝したのだから、2年生、3年生になって実力がつけば日本一になれるだろう。そう思ったファンもいたかもしれない。だが、勝負の世界はそんなに甘いものではない。2年の春は初戦で敗退し、夏は3回戦で敗れた。3年春のセンバツと最後の夏も準々決勝で姿を消し、結局は1年夏の甲子園が荒木の最高成績となった。

 どんなに弱い高校の野球部員でも、甲子園に出場できる可能性は5回あるが、実際に5大会連続で甲子園まで勝ち上がるチームはほとんどない。しかし、荒木は5度とも甲子園に出場し、通算12勝5敗という成績を残した(17試合、141イニングを投げ、防御率1.72)。日本一にはなれなかったが、1980年の夏から1982年の夏まで、高校野球は荒木を中心に回っていた。「荒木大輔の時代」は確かにあったのだ。

 その2年間、日本中の高校球児が「甲子園のアイドル」を倒すことを目指した。

 荒木の1学年上で、報徳学園(兵庫)のエースで四番だった金村義明は、「ジェラシーの塊だった」と、当時を振り返っている。また、1982年の夏に荒木から17安打を放ち、14-2で早稲田実業に引導を渡した池田(徳島)のエース・畠山準は、「早稲田実業に勝った後、カミソリ入りの手紙がどれだけ届いたか」と嘆いた。

 球児として「大ちゃんフィーバー」を経験した人たちは、その凄まじさについてこう口を揃える。

「2006年のハンカチ王子(斎藤祐樹)なんか、比べものにならないくらいすごかった」

 荒木の姿をひと目見ようと、女子高生や女性ファンが集まるのは、早稲田実業のグラウンドや試合が行なわれる球場だけではなかった。今からすれば信じられないほど個人情報の扱いが緩かった時代に、「甲子園のアイドル」の気が休まる時間はなかっただろう。

「リラックスできたのは、校内とグラウンドの中だけだった」と本人は語っているが、荒木はメディアにどれだけ注目されても、黄色い声に囲まれても、最後まで冷静さを失うことも浮かれることもなかった。大会ごとに加熱する報道をよそに、静かにピッチングを磨き続けた。

 甲子園に5回も出場しながら、一度も頂点に立てなかった荒木大輔。

 12勝を挙げながら、5度の敗北を味わった「甲子園のアイドル」。

 誰よりも甲子園に愛されながら、最後まで甲子園に嫌われた男がいた2年4カ月はどういうものだったのだろうか。

 荒木と同じ中学に通っていた宮下昌己(日大三→中日ドラゴンズ)、早稲田実業のチームメイト・石井丈裕(元西武ライオンズ)、東東京地区でしのぎを削った二松學舎大附属のエース・市原勝人(現二松學舎大附属野球部監督)をはじめ、甲子園で戦った愛甲猛(横浜→ロッテオリオンズ)、金村義明(報徳学園→近鉄バファローズ)、畠山準(池田→南海ホークス)など、彼と同じ時間を過ごした球児や関係者の証言をもとに、「荒木大輔の時代」に迫っていく。

(つづく)

(=敬称略)