私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第4回世界で一番悲しいVゴールを決めた男~福田正博(3)証言・福田正博、 1…

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第4回
世界で一番悲しいVゴールを決めた男~福田正博(3)

証言・福田正博、

 1999年J1リーグセカンドステージ第15節。浦和レッドダイヤモンズvsサンフレッチェ広島の試合は、0-0のまま終盤を迎えていた。

 14位の浦和は、13位アビスパ福岡、15位ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)とJ1残留を争っていた。前節終了時点での年間勝ち点は、福岡が28、浦和が26、市原が25。延長Vゴール方式が採用されていた当時、90分以内の勝利が勝ち点3、Vゴール勝利が勝ち点2、引き分けが勝ち点1となり、このまま延長戦に突入してしまうと、福岡は横浜F・マリノスに負けているものの、浦和が得失点差で劣るため、もはや追いつけなくなる。

 一方、市原はガンバ大阪相手に1-0とリードしていた。浦和は90分以内で決着をつけなければ、得失点差で勝る市原に抜かれて、その時点でJ2降格が決定してしまう。

 後半42分頃、福田正博はベンチを見た。

 ベンチに何も動きがなかった。おそらく市原が勝っているのだろう。ということは、90分間で決着がつかなければJ2に降格することになる。

 このまま終わってしまうのか……。気持ちが焦れば焦るほど、ゴールは遠くなった。

 しばらくして、レフリーの笛が鳴った。

 福田は再びベンチを見た。

 ベンチから「×」印のサインが出た。J2降格が決定した――。

 福田はその瞬間、全身の力が抜けたという。

「その試合が終わったというより、長く、苦しいシーズンが『終わったなぁ』と思った。悔しいとか、情けないとかじゃなく、ただ『終わってしまったんだなぁ』って、それだけだった」

 しかし、試合が終わったわけではなかった。すでにJ2降格が決まったにもかかわらず、Vゴール方式による延長戦を戦わなければいけなかった。残酷な宣告を受けたばかりの選手たちにとって、それはどれほど過酷なことだったのだろう……。

 福田は当時のことを回想し、顔をゆがめた。

「延長戦はつらかった……。ルールだから(ピッチに)出ていったけど、もうみんなの気持ちも、チームもバラバラだった。

 広島だって、何のために戦っているのかわかっていなかったと思うよ。俺は、ただただ『(試合を)早く終わらせたい』と思っていた。もう、この雰囲気の中でサッカーをしたくなかったから。『この試合に勝って終わることに意味がある』という人がいたけど、俺らの戦いはそういう戦いじゃない。残留か、降格かをかけた試合だった。だから、降格が決まった時点で、俺には(この試合で)勝つことも、負けることも、意味がまったくなくなってしまった」

 気持ちが入らない試合は、早く終わるどころか、逆にゲームが動かなくなっていた。まるで浦和への罰ゲームのように、サッカーの神様は容易に試合を終わらせようとはしなかったのだ。ただ、サポーターの熱のこもった応援だけがスタジアム中に響き渡っていた。

 延長後半1分。小野伸二のショートコーナーから、ペトロビッチが中央へクロスを入れた。そのボールに、福田は何も考えずに飛び込んだ。そして、右足のインサイドでゴールを決めた。

 シーズン13点目の、喜びも感動もない”世界一悲しいゴール”だった。

 すべてが終わったと思った瞬間、ゴールを決めた福田に抱きつく選手がいた。DFの池田学だった。




Vゴールを決めた福田正博に抱きつく池田学。photo by Yamazoe Toshio

「最初、何が起こったのかわからなかった。見たら(池田)学が抱きついてきて……。もう、ありえないって思った。俺らは、広島相手に勝つか、負けるかの試合をしていたわけじゃなくて、(J1に)残留できるかどうか、という厳しい試合をしていたわけ。

 でも、学が喜んでいたということは、90分間の戦いで降格が決まったことを知らなかったということ。本来、この試合の重要性を理解していれば、プレーの質や判断がシビアになってくるし、90分間で勝つようにプレーするわけでしょ。それがわからない選手が11人の中にいたということが、そのときの浦和のレベルってことだよね。そういう選手を使わなければいけないレベルのチームだった。それが、悲しかったし、すごく寂しかった」

 ハーフウェーラインに歩いていく途中、涙がこぼれてきた。

 今までピッチ上で泣いたのは、『ドーハの悲劇』のときしかなかったが、そのときとは違う種類の涙だった。涙腺が壊れてしまったのかと思うほど、その涙は止まらなかった。

「みっともないくらい泣いていた。(チームを)J2に降格させてしまったこと、監督に対しての悔しさもあった。チャンスをもらった自分が十分な働きができなかった歯痒さ、これだけのメンバーがいて『なぜ勝てないんだ』という思いもあった。そんな、いろいろな感情を抑え切れなくなってしまった」

 泣きながら歩いていると、広島の森保一と目が合った。抱き合うと、さらに涙があふれてきた。『ドーハの悲劇』を経験した同志の姿に、あのときの思いが少し重なってしまったのだ。

「来年、上がってくればいいよ」

 森保は、そう優しく声をかけてくれたという。

「そんなこと言う前に、なんで手を抜いてくれなかったんだって思ったよ」

 試合後の挨拶を終え、福田はそのままベンチに座り、残りの涙をすべて流した。泣き終わると、すごくさっぱりした気持ちになったという。そのせいか、試合後のメディア対応では、黙って通り過ぎることもなく、いつもより冷静に応じることができた。

 福田の気持ちは、J2降格の現実を受け入れ、穏やかになっていた。

 翌日、福田は自宅でも取材を受け、そのまま家の近所の公園まで歩いていった。

 すると、その公園でア・デモス監督がひとりで散歩していた。福田は「何で、こんなところにいるんだろう」と思いながら、彼の姿を視線で追った。その表情はげっそりとしていて、存在自体が小さく見えたという。

「前日までは『この監督とは二度と一緒に仕事はしたくない』と思っていたけど、そのやつれた表情を見たとき、『プロ監督って、こうなんだ』と痛感させられた。だって、そんな表情とか、弱さとか、チームにいるときはそれまで一度も見せたことがなかったからね。

(監督は)いいトレーニングができたら、40分くらいでパッと終えるし、ミーティングでも理路整然としていた。その話を聞いていると、負ける要素なんてないと思えた。そういうところはすごいなって思っていた。でも、公園で見たときは、10歳くらい年をとったみたいな感じだった。彼は選手を管理し、何でも自分でやる昔ながらのタイプだったけど、たったひとりで『いろいろな思いを抱えて仕事をしていたんだな』というのを、そのとき初めて理解できた」

 さまざまなことがあった半年間。その中で生まれたア・デモス監督に対する感情を、すべて水に流す気にはならなかったが、プロの監督という仕事の重さ、つらさや厳しさは理解することができた。

 福田はそのまま声をかけることなく、ア・デモス監督が散歩する姿をしばらく見つめていた。



J2に降格した瞬間を改めて振り返る福田。photo by Sano Miki

 翌2000年、浦和は1年でJ1昇格を果たした。

 J2降格時と同様、苦しいシーズンだった。それを象徴するように、最終節、延長Vゴールでの昇格決定だった。

「(昇格を決めた瞬間は)ホッとしたよね。ほんと、それだけ。降格したときは得失点差1に泣いた。反対に、昇格したときは勝ち点1差に笑った。どちらにしても”1点”という重みをすごく感じた。

 1年前の悔しさ? それを思い出すことはなかった。よく『あのときの悔しさがあったからこそ……』とか言うけど、悔しさだけじゃ、1年も(気持ちが)もたない。人間なんて、時間が経過すれば(何事も)忘れてしまう。とにかく、目の前の試合を精一杯戦っていくだけだった」

 そう振り返った福田だが、J1復帰を決めたそのシーズンにおいても、チームに不満を感じていたという。

「1年でJ1に昇格できたけど、結局、浦和は降格したことから何も学んでいなかった。あの降格は、浦和にとって何の意味もなかったってこと。だって、反省していなかったから。

 降格したことで、俺は選手もフロントも、もっとプロフェッショナルになってほしかった。契約形態うんぬんではなくて、考え方がプロになってほしかった。でも、そういうふうにはならなかった。チームはその後、『優勝を目指します』とか言っていたけど、言葉だけだった。本当に優勝を狙うなら、一流の選手をどんどん獲得して、俺のクビも切るとかして、そういう姿勢を見せてほしかった。

 俺自身もプロなら、自分に合うチーム、優勝するための努力をしているチームに移籍するべきだった。それが、プロフェッショナルのあるべき姿だと思うけど、当時は移籍係数とかあって、移籍が制限されて難しい時代だった。だから、内側からチームを変えようと思っていたけど、プロなら動くべきだった。そういう意味では、あの時代、チームも、俺も、アマチュアだったんですよ」

 福田は、当時の鹿島アントラーズやジュビロ磐田のような、チームとして成熟していて、常に優勝を争える強さを持つクラブのことを、うらやましく思っていた。そして自らも、浦和を常に優勝を争えるチームにしたいし、そういうチームでプレーしたい、と思っていた。福田の厳しい言葉の裏には、そんな強い思いがあったのだ。

 最後に聞いた。

 福田にとって、J2に降格したあの1999年はどういうシーズンだったのか。

「あのとき、32歳だったんだけど、そろそろ(現役は)厳しいかなぁ、衰えてきたなぁ、と弱気になり、引退ということを考えさせられた。

 選手は、毎年ちょっとずつ成長していると思っているけど、外から見ていると、明らかに力が落ちてきているのがわかる。自分の感覚と外側の評価ではギャップがあるんだけど、(選手は)それを受け入れられない。(選手自らも)薄々わかっているけど、それを受け入れると選手生命が終わってしまうと思っているから、怖いんだよ。しかも、ベンチに座るという経験が少ないと、それを我慢できない。そこで、どう振る舞っていくのか。そういうことに初めて直面したシーズンだった」

 福田は当時の自分を思い浮かべて、複雑な表情を見せた。

 あのときの福田は「自分がやる」という気持ちを前面に出して、「自分が一番点を取っている」という自負もあった。ピッチで戦う選手にとって、そうしたプライドを持っていることは必要だ。だが、福田自身もいっぱい、いっぱいのところで戦っていたのかもしれない。

 俺がやる――そう言い続けなければ、自分が壊れてしまう。降格だけではなく、そんな怖さとも福田は戦っていたように思える。

 福田にとって、1999年は厳しいシーズンだった。しかし、残り少ないプロサッカー選手としての生き方を、改めて考えるいい機会になったのではないか。

 このシーズンから3年後の2002年、悲願のタイトル獲得にあと一歩まで迫りながら、その夢を果たせずに福田は現役を引退した。

 その翌年、浦和はナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で優勝し、初の栄冠を手にしたのである。

(おわり)