太田幸司氏は甲子園で「コーちゃんフィーバー」で大注目 常に注目を浴び続けた。元近鉄の太田幸司氏(野球評論家)は青森県立三…

太田幸司氏は甲子園で「コーちゃんフィーバー」で大注目

 常に注目を浴び続けた。元近鉄の太田幸司氏(野球評論家)は青森県立三沢高時代に甘いマスクの快速球右腕として人気大爆発。1969年夏の甲子園決勝・松山商戦での延長18回0-0引き分け大熱投で「コーちゃんフィーバー」はさらに過熱した。“決勝2試合目”に2-4で敗れて準優勝に終わった以降も全日本高校選抜でのブラジル遠征、長崎国体と投げ続けると、ともに騒がれたのは進路問題だ。大学進学か、プロ入りか。大いに揺れたという。

 1969年9月6日、太田氏はブラジルで完全試合を達成した。松山商との“決勝2試合目”に敗れたのが8月19日だったが、8月下旬には全日本高校選抜メンバー入りして、ブラジル、ペルー、アメリカ遠征に参加。偉業はブラジルのパラマ州マリンガの高校、社会人混成チーム相手に成し遂げた。15-0の大勝で「まぁ、向こうのレベルがそんなにねぇ……」と話したが、114球、14奪三振の力投だった。

 この遠征での親善試合は計20試合行われ、日本選抜が17勝3敗の成績を残した。太田氏は8試合に投げ、そのうちの5試合に先発し「今だったら、甲子園であれだけ投げたら無理させないだろうけど、もう1番手でバンバカ、バンバカ投げていたからねぇ」と苦笑する。「日本に帰ってきた時、やっぱり肘に違和感があった。向こうのボールはちょっと重かったし、下も赤土のアンツカーみたいな感じで足の裏は痛くなったしね」とも振り返った。

 当時の日本高野連会長の佐伯達夫氏が日本選手団の団長。「佐伯さんには、よう説教を食らいましたよ。ブラジルの大学チームとか試合をして、ウエルカムパーティーがその後あったんだけど『今日の君らの態度は何だ。日の丸をつけているんだ。もっとピシッとやってくれ』とかね」と懐かしそうに話す。「サンパウロとか、ブラジリアとか、野球をやっていたおかげでいろんな経験をさせてもらいました」。

 しかしながら「コーちゃんフィーバー」はまだまだ続いた。「甲子園が終わって、僕と桃井(久男内野手)と八重沢(憲一内野手)がオールジャパンに選ばれたんだけど、残った連中で(8月下旬に)三沢に戻ってからパレードしたんです。で、(9月下旬に)僕ら3人が帰って来たときにもう1回、八戸から三沢までパレード。僕らは初めてだけど、他の連中は『1か月も経つのにカッコ悪いわ』と言いながら2回やっていました」。それも太田氏の人気あってのことだ。

甲子園後も国体に女性ファンが殺到

 日本中から注目を浴び、常に女性ファンからの黄色い声援を受け、ファンレターは「青森県 太田幸司様」だけで届き、「『家出してきました』って言って、僕の家に駆け込んでくる女の子もいましたからね」というほど。それこそ気が休まる日はなかったことだろう。その上、登板も続いた。10月下旬には長崎国体で佐世保市営球場のマウンドに立った。それも準々決勝(10月29日)で松山商との再戦だ。女性ファン殺到の大騒ぎの中、太田氏は完投したが、1-2で敗れた。

「なんかずっと投げっぱなしですよね。よう、ホントに……。でも、あの頃はそれが当たり前と思って投げていますからね。“ちょっと疲れて……”とか、そんなのも言った覚えもないし……」。これが高校野球最後の登板になったが、甲子園大会以降、並行して注目を集めたのが、進路問題だ。「決まりましたか」との質問は何度も受けたそうだが「その頃の僕は、本当にどうするか決めていなかったんですよ」という。

 大学進学か、プロ入りかで揺れていた。「大学は行くんだったら、東京六大学がいいなって思っていました。どことかは全く決まっていませんでしたけどね。進路について学校の先生の意見も2つに分かれていました。『プロは大学に行って4年間やって経験を積んでからでいいんじゃないか』という先生もいれば『ピッチャーは消耗品だからパーッとプロに行った方がいい』という先生もいましたしね」。

 なかなか結論を出せなかった。「“これだけワーワー騒がれて、プロに行って先輩方といろんな軋轢があったりとかしたらしんどいし、ちょっと熱が冷めるまで大学で4年間やってからでも”というアドバイスとか、聞けば、聞くほど悩んでしまいましたよね」。最終的にプロ入りを決めたのは11月20日のドラフト会議で近鉄から1位指名を受けてからだった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)