<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。 ◇ ◇ …
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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キャンプを制すは、ペナントを制す--。駆け出し記者だった当時、そんな言い伝えを聞かされてきた。プロ野球キャンプも中盤に差しかかった。WBCを控えるイレギュラーだが、ここからの実戦で本番まで見極めが繰り返される。
キャンプ序盤から紅白戦を取り入れるチームがあったかと思えば、全員ノックで守備力、あるいはベースランニングを重視したメニューも見受けられた。臨時コーチの指導、初日から7時間の猛練習を課した球団など、各チームに“色”がにじんだ。
これまで取材してきた阪神キャンプで強烈な印象を受けたのは、スター監督だった野村克也の初年度になった高知・安芸キャンプだ。前年までヤクルトで指揮をとった大物のライバル球団への移籍は衝撃的で、おのずと脚光を浴びた。
南海ホークスで戦後初の三冠王。通算657本塁打は歴代2位で、兼任監督としてリーグ優勝を遂げた。ヤクルト監督として4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成。名選手で、名監督だった外部招聘(しょうへい)は、阪神史上の分岐点になった。
それは三顧の礼を尽くした監督就任要請が象徴した。オーナー・久万俊二郎(電鉄本社会長)、オーナー代行・手塚昌利(同社長)のツートップが“出馬”する超異例で、わざわざ東京に出向き、球団社長の高田順弘と3人で野村を口説いた。
受諾後の就任会見は、高田が「野村さま」と“様付け”で呼ぶほどの特別待遇だった。久万は「阪神淡路大震災を機に基本的なことが崩壊した。野村さんが去った後も考え方、技術が残るよう、現場はもちろん、フロントも教育してほしい」と“全権”を約束するのだった。
野村ヤクルトの側近だったチーフコーチ・松井優典も阪神に流出し、ヤクルトのらつ腕球団社長・田口周は「阪神に禁じ手を使われた思いだ」と不快感を口にした。そんな経緯もあってキャンプから虎フィーバーに拍車がかかった。
野村は阪神キャンプ初日から、新庄剛志の投手挑戦の二刀流を認めた。現場は取材陣であふれ返って、ヘリコプターが上空を飛んだ。大阪市内の百貨店が販売した1体100万円の「純金ノムさん人形」が完売。早々と優勝祈念号と銘打った雑誌が書店に並んだ。
キャッチフレーズは「TOP野球」と名付けられた。「T」=トータル(総合力)、「O」=オブジェクトレッスン(実戦訓練)、「P」=プロセス(課程重視)。野村は「アメリカ大統領になった気分やな」とご満悦で、阪神首脳も低迷脱出を確信したものだ。
確かに、膨大な人生訓に、2ランスクイズなど奇抜な作戦は目を引いた。巨人戦で藪に代えて左の遠山を投入して抑えると、右の代打元木に横手投げの伊藤をつぎ込み、遠山を一塁のポジションに。4番松井に回った際のスペシャル継投を繰り出した。
「野球の本質は強いチームが勝つとは限らない。有形の力には限界があるが、無形の力に限界はない。突き詰めるほど、その力は大きくなる。謙虚に、そして無形の力を磨けば、強者に勝つことは十分に可能性がある」
だが“ノムラの考え”に反して、1年目は首位に立つ時期はあったが、夏場から大型連敗を喫し、最下位に沈んだ。2年目も5月に6位転落、最終年は沙知代夫人が所得税法違反で逮捕される事件が起きて、辞任に追い込まれるのだった。
野村語録には「失敗と書いて『せいちょう(成長)』と読む」といった言葉もあったが、3年連続最下位でチームが浮上することはなかった。ただ2年後に阪神を率いた星野仙一が優勝するのだから、外部招聘は転機になった。
今思えば、低迷した“暗黒時代”になつかしさも感じるが、「リーダーの力量以上に組織は伸びない」と語った名将でも再建できなかった。裏を返せば、謙虚さを欠いてスキをみせれば、足下をすくわれ、天国から地獄に落ちるといった教えでもあった。
(敬称略)