九州文化学園高・香田勲男監督、近鉄移籍を振り返る 望まれて移籍したはずの新天地で、痛烈なヤジを受けた。巨人、近鉄で投手と…

九州文化学園高・香田勲男監督、近鉄移籍を振り返る

 望まれて移籍したはずの新天地で、痛烈なヤジを受けた。巨人、近鉄で投手として活躍した香田勲男氏は、九州文化学園高の野球部監督に就任して5年目を迎えている。昨夏の長崎大会は惜しくも準優勝。昨秋の長崎大会もベスト4に進出。指導者として手腕を発揮する香田氏が、巨人から近鉄にトレード移籍した舞台裏を振り返った。

 1989年の日本シリーズで2勝を挙げて日本一に大きく貢献すると、翌1990年も先発ローテーションの一角を担って奮闘。プロ7年目で初めて規定投球回に到達し、自身初の2桁となる11勝(5敗)を挙げた。防御率も2.90と安定。「その頃が巨人では一番いい時代でした。充実していましたね」。チームの2年連続リーグ優勝を果たした一方で、日本シリーズは西武に4連敗で終戦。香田氏は1、2戦目に中継ぎ登板して計4回1失点(自責点0)だった。

 年齢的なものに加えて相手の研究も進み、8年目の1991年は6勝止まり。1992年は右肩手術でリハビリ中だった1987年以来5年ぶりの0勝に終わった。節目の10年目となった1993年は8勝と持ち直したものの、翌1994年は2勝。「成績も少しずつ落ちていって、私も投球を変えなきゃいけないようになっていて、オフになると毎年トレード候補に名前が出てきている感じでした」と当時を思い起こした。

 そしてチームが日本一を奪回した1994年のオフに、近鉄へのトレードが決定。5年前の日本シリーズで、自らの快投で下した因縁の球団だった。交換相手は調子を崩していた左腕エースの阿波野秀幸。「巨人は左投手が少なかった時期。阿波野さんとの交換トレードですから、光栄と言ったら変ですけど、いい経験をさせてもらいました」。自身を評価してくれる球団で再起を図った。

鳴り物禁止の本拠地・藤井寺球場「声がよく聞こえる」

 現在ではトレードに感謝しているものの、当時は「真逆なチームに行ってしまったので、最初は本当に嫌でした」と回顧する。人気球団から、まだ人気が高いとは言えなかった時代のパ・リーグ球団への移籍。紳士的な雰囲気の巨人から、豪快な野球がイメージの近鉄である。生活面では関東と関西の違いに最初は戸惑いもあった。

 環境に慣れないと、結果もなかなか出ない。移籍1年目の1995年は先発12試合を含む20試合に登板したものの2勝5敗、防御率4.96。翌1996年も0勝に終わった。

「行った当初はなかなか勝てなかったり活躍できなかったので、もどかしい時期もありました」。本拠地の藤井寺球場は住宅街にあり、鳴り物は禁止。巨人の試合ほど観客は多くなく、ファンの痛烈なヤジもよく聞こえてきた。

「阿波野さんとトレードだったので『阿波野を返せ~!』とか『東京に帰れ~!』とよく言われていました。ヤジるおっちゃん、本当によく声が通るんですよ。いい声してるんですよね」

 今でこそ笑って話せるが、当時は心身とも苦しかったのは間違いない。それでも徐々に環境に慣れるとともに投球スタイルを少しずつ転換し、移籍3年目の1997年は9勝4敗と復活。巨人時代にはなかった球宴出場を果たし、近鉄でも存在感と地位を確立していった。(尾辻剛 / Go Otsuji)