蹴球放浪家・後藤健生は今年6月、アメリカに向かう。もちろん、ワールドカップを取材するためだ。今回は3か国の共催であるが…

 蹴球放浪家・後藤健生は今年6月、アメリカに向かう。もちろん、ワールドカップを取材するためだ。今回は3か国の共催であるが、蹴球放浪家は32年前にもアメリカでワールドカップを取材している。今とは、まったく違う姿のアメリカで…。

■ワープロの時代

 1994年のワールドカップは、僕が初めてパソコンを持っていった大会でした。

 僕は1980年代からワープロを使っていました。若い方はご存じないかもしれませんが、当時はパソコンではなくワープロ専用機というものがありました。それを使って原稿を書いたら、プリントアウトして編集部に送るというのが1980年代の仕事の仕方でした。

 その後、通信機能付きワープロが登場して、電話回線を使って接続ポイントにアクセスすることによってメールを送受信できるようになりました。ですから、原稿も送信できるはずなのですが、多くの編集部がメールに対応していなかったので、まだ、プリントアウトしていましたが、1994年になると次第にメール送信も一般的になっていきました。

 1990年のイタリア・ワールドカップのときは、通信機能付きワープロはまだ機械が大きくてデスクトップ型だったので持ち運びはできず、手書き原稿をFAXで送信するという形で仕事をしていました。

 そして、1990年代初めに持ち運びに便利な「ラップトップ(膝の上)」型パソコンが登場しました。現在のノートパソコンです。

■現代は夢のような時代

 僕もさっそく、IBM製のシンクパッド(ThinkPad)を購入しました(その後、シンクパッドは中国のメーカー、レノボ=聯想集団=に買収されました)。

 1994年のアメリカ大会にも、シンクパッドを持っていきました。ただ、まだ政府や大学関係者以外はインターネットが使えませんでしたから、ワープロ時代と同じく電話回線で接続していました。

 原稿を書いてプリントアウトせずに送信できるのですから便利ではあったのですが、当時のラップトップは5キロ近くの重量があり、さらに日本で購入した機械を使うには変圧器も必要で、その変圧器も現在のものよりずっと大きく、重たかったのです。

 今から思うと、よくもまあ、あんな重い物を持ってアメリカ中を旅したものです。

 今は、1キロもないような軽いパソコンを持っていけば変圧器も必要ありませんし、どこに行ってもWiFiを使って簡単に接続できるのですから、夢のような時代です。

 ワールドカップの試合に関する情報(メンバー表やスタッツ)も、メディアセンターに行かなくても、インターネットに接続さえすれば簡単に閲覧したり、ダウンロードしたりできます。

 というわけで、32年の間に、さまざまなことが変わってしまったという話でした。

■失われた30年ではない!

 しかし、ワールドカップに関して最大の変化は日本代表の存在でしょう。

 32年前のワールドカップには日本代表は出場していませんでした。前年にカタールのドーハで集中開催されたアジア最終予選。最終イラク戦のアディショナルタイムに同点ゴールを許した日本は、予選で3位となって出場権を逃したのです(アジアに与えられた出場枠はたったの「2」でした!)。

 それが、どうでしょう。2026年大会に日本代表は8大会連続で出場。その間に4度もグループリーグを突破し、今では世界の強豪と互角に近い戦いができるようになり、「ドーハの悲劇」のときにピッチ上にいた森保一監督は「優勝を狙う」などと公言しています。

 日本という国にとっての30年……。経済的には、まさに「失われた30年」でしたが、日本のスポーツ界にとっては「大躍進の30年」でした。

 サッカーの日本代表は世界の強豪国のひとつとなりましたし、野球でも野茂英雄さんがアメリカ大リーグ(MLB)に初めて挑戦したのが1995年でしたが、誰もが「本当に通用するのか?」と疑問視していたものです。だが、今では日本人選手がMLBで本塁打王争いをしたり、MVPを取るのが当たり前になっているのです。

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