<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。   ◇    ◇  …

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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プロ入りした新人たちの自主トレがにぎわっている。スタート地点に立ったルーキーが口にする「早く環境に慣れたい」というコメントに触れるたびに思い出す光景がある。

東都リーグの亜大で32勝をマークし、アマチュア野球NO・1の左腕だった阿波野秀幸。近鉄バファローズのドラフト1位で、球界を代表するピッチャーにのし上がった。

神奈川県出身の阿波野にとって、関西はなじみがなく、近鉄は意中の球団ではなかった。わざわざドラフト前日に巨人、大洋(後に横浜、現DeNA)、西武の在京球団を逆指名したほどだった。

1986年(昭61)のドラフトでは、中日新監督に就いた星野仙一が、5球団競合の近藤真一(享栄)をつり上げて話題をさらった。阪神監督だった吉田義男は「星野の勢いにはかないませんな」とチクリといった。

またその年日本一の西武が、無名だった森山良二(ONOフーズ)を1位で指名すると会場がどよめいた。“球界の寝業師”の異名をとった根本陸夫がまたしても豪腕を発揮し、ドラフトは盛り上がった。

学内で待機した阿波野には、巨人、大洋、近鉄の3球団が重複。星野が派手なガッツポーズをした余韻が残る中、阿波野の交渉権を得たのは、まさかの近鉄だった。

しかも亜大には、近鉄から事前に指名のあいさつがなかった。3分の1の“当たりくじ”を引いたのは名物球団代表で、小躍りした前田泰男。だが逆に当の阿波野は想定外の事態に表情をこわばらせた。

晴れ晴れした空気感は一切なく、それでも「1位には変わりはありません。光栄です」と声を絞り出すのが精いっぱいで、「白紙の状態です」とだけ言い残して帰宅している。

それから近鉄監督の岡本伊三美をはじめ、スカウト4人が自宅を訪問するなど説得が続いた。最初は大学側も態度を硬化させたが、最終的に総監督の矢野祐弘が背中を押して「近鉄阿波野」が誕生する。

その阿波野が入寮のため初めて関西に足を踏み入れた日は雪が降った。新大阪駅のホームで迎えたのは近鉄スカウトの河西俊雄とNHKのディレクター、そして拙者の3人だった。

南海、阪神でプレーした小柄な河西は、スカウトで江夏豊、掛布雅之らを担当した辣腕(らつわん)だった。ほとんどの取材陣は藤井寺球場に隣接した「球友寮」で待ち構えた。

後に球団を手放した近鉄だが、営業距離数ではトップを誇った。私鉄最大手だから、ドラフト1位の“金の卵”はタクシーで移動するのが当然と思っていたが、河西がぽつりともらしたのだ。

「よぉ来てくれたなぁ。関西に早く慣れたほうがいいやろ。電車でいこか…」

そこで3人は、阿波野が新幹線を下車した新大阪駅から地下鉄に乗り継いで天王寺駅、阿倍野駅で近鉄電車に乗り換え、ホームグラウンドのあった藤井寺駅に到着した。

そのまま寮に行くのかと思ったら、今度は河西が「大阪はうどんがうまいんやで。うどん、食べてこか?」と駅前のうどん屋に立ち寄った。しかし、目の前の阿波野が熱いうどんを一口すすっただけでハシを止めるではないか。

関西風の薄口のダシが合わなかった。そこで思わずしょうゆを注いで腹に流し込んだ。ベテランスカウトの誠意、知らない土地柄、環境に溶け込みたいルーキーの心根が無言のシーンにクロスした。

球団経営から手を引いた近鉄だが、エース阿波野の活躍は球団史に輝いている。1年目から15勝を挙げて新人王、昭和が平成に変わった89年は、最多勝(19勝)で優勝の立役者。伝説の名勝負「10・19」を演じた。

パ・リーグを代表した門田、秋山、清原、石嶺、ブーマーら猛者たちに立ち向かった。色白の細身で「トレンディーエース」と一世を風靡(ふうび)し、すっかり関西風に仕上がった。

後にドラフトで入札を受けた巨人、横浜にトレードで移籍したのも、まさにドラマチックで、“味”のある野球人生といえるのではないだろうか。(敬称略)