京都国際・西村一毅インタビュー(前編)「卒業後の進路は公務員志望って言うてたんですよ」 2024年の6月、当時、京都国際…

京都国際・西村一毅インタビュー(前編)

「卒業後の進路は公務員志望って言うてたんですよ」

 2024年の6月、当時、京都国際の2年生左腕だった西村一毅が、春の府大会、そして近畿大会で快投を重ね、注目を集め始めた頃だ。小牧憲継監督は、西村の将来の進路について、次のように語っていた。

「理由を聞いたら『安定しているから』やそうです。欲がないというか、なんというか......」

 半ば呆れたように、指揮官がそう嘆いていたことを思い出す。その頃のことを西村に尋ねると、表情ひとつ変えずにこう答えた。

「そうなんです。公務員希望でした。あの頃は野球も続けるかどうかって感じだったんですけれど......」

 そんな"無欲"なピッチャーがその数カ月後、夏の甲子園の優勝投手になっているのだから、人生どうなるのかわからないものだ。


2年夏の甲子園で全国制覇を達成した京都国際・西村一毅

 photo by Ohtomo Yoshiyuki

【甲子園で防御率0.00の衝撃】

 ただ、西村にとって、優勝を果たした夏の甲子園からの1年間は、まるでジェットコースターのような時間だったのではないだろうか。

「(優勝してからは)短かったです。去年(2024年)の夏が終わって、気づいたらまた夏が来ていたというか......あっという間でした」

 2004年夏の甲子園では4試合に登板。2完封を含む24イニングを投げ、14奪三振、11被安打で無失点。防御率0.00という"無双状態"で、優勝に大きく貢献した。得意のチェンジアップを駆使し、どんな強打者を相手にしても、まるで"どこ吹く風"といったポーカーフェイスぶりは、2年生とは思えなかった。

「正直、優勝した実感はあまりなかったです。『本当に優勝したんかな』という感覚でした。(無失点で投げきれたのは)いい意味で結果にこだわりすぎず、やってこられたからだと思います。キャッチャーのサインに首を縦に振って、要求どおりのボールを投げきること。そのことだけをずっと考えていました。実際に配球どおり、しっかり投げられていたので、それがよかったのかなと思います」

 入学当初、西村は外野手だった。投手へ転向したのは1年冬。そこから投手としての適性を伸ばした。その頃から常に背中を追い続けてきた存在が、1学年上の同じ左腕エース・中崎琉生(現・國學院大)だった。

「中崎さんがいたので、1試合投げると次の試合は投げることがなく、疲労はそれほどなかったです。(甲子園での)決勝戦は(ピンチからの登板だったで)いっぱいいっぱいになってしまいましたが、一周回って集中できました」

 決勝の関東一戦は、2対0で迎えた延長タイブレークの10回裏から登板。無死一、二塁のピンチで、失策により無死満塁とされ、内野ゴロの間に1点を返された。それでも最後まで踏ん張り、試合を締めると、マウンド上に広がった歓喜の輪の中心に立った。

【全国制覇から1カ月後の試練】

 決勝戦が行なわれたのは8月23日。翌日から新チームが始動したが、西村にとっては、この日からが本当の戦いだった。そのわずか16日後には秋の府大会を控え、京都国際に向けられる視線は、よりいっそう厳しいものとなった。

「あの景色のなかで野球をさせてもらったからこそ、もう一度、あの場所で野球がしたい。その思いだけでした。それが(最後の夏に向けた)モチベーションになっていました。だから自分としては、周囲の視線はあまり気にしていなかったつもりでした」

 それでも、京都国際を語るうえで常につきまとったのは「連覇」という言葉だった。背番号1を背負う西村には、さらに大きな期待が寄せられる。一方で、これまでお守りのような存在だった中崎は、もうチームにはいない。

「それまでは3年生の存在が大きくて、自分がしっかり投げさえすれば、あとは3年生が何とかしてくれる、という気持ちでマウンドに上がっていました。でも新チームになってからは中崎さんがいなくなり、自分が引っ張らないといけない立場になって......。

 ただ、当時はチームを背負えるほどの器ではなかったし、ピンチになると焦っていないつもりでも、どこかに焦りのようなものがありました。どうやってチームを引っ張ればいいのか、わからなかったというのもありました」

 秋の京都大会4回戦で、難敵・京都外大西と対戦した。先発のマウンドに立った西村だったが、夏の甲子園のような投球は見られない。

「初回にタイムリーを打たれて、自分でも『あれ?』という感じでした。それでも、その後は何とか思うように投げられていたのですが、終盤の押し出しが痛かったです。自分の気持ちが切れかけているなかでの押し出しだったので......」

 京都外大西の揺さぶりも、意識しないつもりではいたがどこかで気にしていた。試合は1対1のまま延長戦にもつれ込み、11回表に味方が1点を勝ち越したものの、直後の裏に押し出し四球などで2点を献上しサヨナラ負け。11回を投げきって18奪三振を記録したが、踏ん張れなかった。

 奇しくもこの日は、夏の甲子園優勝からちょうど1カ月後にあたる9月23日だった。新チームが動き出してから、わずか1カ月で翌春の選抜への道が断たれてしまった。

「いま思えば、(夏の甲子園からの)疲労があったのかなと思いますが、投げている時は、疲れはまったく感じませんでした。チームを背負いきれなかった、自分の器の小ささを痛感しました」

【焦りと不安と向き合う日々】

 9月の終わりから、早くも来夏を見据えた練習が始まった。見方を変えれば、夏から秋にかけての時間が十分に取れなかった分、来夏に向けた準備の時間は、シーズンオフを挟んでたっぷりと確保できたとも言える。

「冬場は走り込みよりも筋力トレーニングが中心でした。とくに、(太ももの)裏側の筋肉を鍛えるメニューに重点的に取り組みました。体重も5、6キロ増え、下半身にしっかりと筋力がついた実感がありました。春になると、腕を思い切り振らなくてもボールが走るようになり、踏ん張らずに強い球を投げられるようになった。ストレートの勢いも増し、詰まらせる場面が多くなりました」

 だがそんな自信も、夏のシード権をかけた春の府大会で崩れてしまう。初戦の龍谷大平安戦、0対0のまま試合は8回裏に突入し、先頭打者に三塁打を許すと、四球などでピンチを広げ、暴投で1点を献上。結局、その1点が最後まで重くのしかかり、試合は0対1で惜敗した。

「あの試合はフォームが安定せず、コントロールも荒れ気味でした」と自身の投球を振り返ったが、西村が最も悔やんだのは技術以外の部分だった。

「秋と同じように自分が粘りきれなかったことが悔しかったです。最後に暴投で点を取られてしまったのも、秋と同じような失点の仕方でしたし......。秋から何も変わっていなかった」

 秋、春の公式戦で上位進出を果たせないまま、チームは夏を迎えることになった。そこから、いかにして状態を引き上げていくのか。西村は、最後の夏に向けて、次のように語っていた。

「夏に向けては、試合のなかで自分が持っているものを、いかに使いきれるかを意識するようになりました。とにかく、試合勘を養っていくしかないと思っていました」

 春の公式戦を終えると、5月、6月と毎週末の練習試合で、西村は先発マウンドに上がり続けた。だが、その調子は一進一退をたどる。6月半ば以降は近畿圏の強豪校との試合が多く組まれたが、長打を浴びて失点する場面が目立った。じつはその頃からフォームのバランスを崩し、思うようなピッチングができない試合が続いていたのだ。

「なかなか状態が上がらなくて、焦ることもありました。でも、どこかが痛いとかはまったくなかったんです」

 そんな状態のなか、西村は高校最後の戦いへ臨むのであった。

つづく>>