日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。   ◇   ◇   ◇1956年…

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

   ◇   ◇   ◇

1956年(昭31)に阪神で起きた「藤村監督排斥事件」が収束したのは年末の12月30日だった。中心選手から「退陣要求」を突きつけられた藤村富美男の“続投”が決まった。

藤村の解任を求めた主将の金田正泰、真田重蔵、田宮謙次郎ら主力12人が署名、押印した連判状には、まだ若手だった吉田義男、三宅秀史、小山正明らの名前もあった。

この一件について生前の吉田は「今振り返っても藤村さんには申し訳なかったと思っています。ぼく自身もいやな記憶でしかありません」と述懐していたのを覚えている。

「わたしたち若手に藤村さんを批判する気はまったくありませんでした。でもなにもわからなかったので、先輩についていかざるを得なかったんです。わたしも随分悩みましたし、組織としても未熟でしたわ。藤村さんは孤立無援だったと思います」

プロ4年目、23歳。吉田にとって大先輩だった藤村の存在は偉大だった。「赤バットの川上哲治さん、青バットの大下弘さんが国民的スター、その方々に対抗したのが、藤村さんでした」とリスペクトした。

藤村の長男・哲也も、父親から吉田評を聞いていた。「『吉田のところは夫婦の仲がいいんだよ』と気にかけていたし、プレーでも『ほ~っ、あの球を捕るか…』と感心していました」。“ミスタータイガース”も“牛若丸”を認めていたのだ。

野球一家で育って、本田技研鈴鹿の監督まで務めた哲也も「わたしが見ていても、鋭いというか、キレというか、吉田さんのような、ああいった身のこなしをする人はいません。今もいません。そりゃすごかったです」と言う。

若手だった吉田は、藤村から“用具係”に指名されるほどかわいがられ、先輩が使用する物干しざおのような長尺バットをかついで遠征先に移動した。吉田にとって「なにもわからず先輩に従った」というのが排斥事件の事実だろう。

そして、ショート吉田と三遊間を組んだ三宅秀史(21年3月3日没)も同じように「藤村さんには非常に申し訳ないことをしたとずっと思っていました。行動をともにしたのはうかつだった」と悔やんだ。

もともと藤村は派手なプレーで、ショーマンシップを発揮した。藤村、別当薫、金田らを擁した強力打線を「ダイナマイト打線」と命名したのは、日刊スポーツ記者の高山方明だ。ただ1949年に49本でホームラン王に輝いた後は長打力が鳴りをひそめる。哲也が「あまり表に出ていない父親らしいエピソードです」と明かした。

「母親(衣代)から聞いた話では、うちのおやじは球場に行く前に必ず自分のお父さん(鉄次郎)に手を合わせ、そしてちょっと低いところにあった神棚に頭をぶつけると、必ずホームランを打ったらしいんです。それが49本塁打の後で打てなくなったとき、母親がそのことを言ったら、わざと自分から頭をぶつけにいったらしいんです。すごいなと思いました。頑固で、真っすぐな父親らしい、それだけ必死だったんでしょうね」

選手兼任監督になって生じた排斥事件は、球界全体を揺るがす事態に陥った。藤村と対立した金田を仲介したのは、巨人・川上哲治だ。関係修復に両者の会談をセットした。吉田も「わたしの京都の実家にも、読売系列の新聞記者が説得に来てましたわ」と裏付けた。

最終的に解雇された金田が再契約し、退陣要求書は撤回。すでに歴史の生き証人たちは鬼籍に入った。その後も“お家騒動”をくぐってきた吉田は、甲子園に歴代永久欠番のレリーフが設置された際、自分のこと以上に「藤村さんの栄光がよみがえった」と喜んだ。

今、ミスタータイガース藤村富美男は何を思うかを問うと、哲也は「今は強い。でもずっと大切にしていかなければいけないことってあると思うんです。おやじは『タイガースも変わったなぁ』と言いますよ。きっと。いい意味でね」と付け加えた。いよいよ歴史を繰り返した昭和100年の年が暮れていく。(おわり、敬称略)