サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、「やっちまった~!」場合に、どうすべきかについて。
■韓国代表にのしかかった重圧
その後の日韓定期戦での日本の勝利は5年間も待たなければならず、終始劣勢が続いた。1991年の第15回定期戦(すなわち全15戦)までの日本の成績は3勝2分け10敗。「ライバル」と呼んだら韓国が気を悪くするかもしれない成績だったのである。
当然試合内容も、ほとんどの試合が完全な劣勢だった。韓国はスピードと個人的な強さを生かして日本の守備を突破し、次々とシュートを放った。もし、このころの韓国選手にペナルティーエリア内での落ち着きと、それによる「決定力」があったら、多くの試合が3点差、4点差がついても不思議のない内容だった。しかし15試合での実際の総得点は、日本の14に対し韓国は26点と、内容の差ほどには開かなかったのである。
このころ私が気づいたのが、シュートを外す、あるいは日本のGKに防がれたときの韓国選手たちの大げさなジェスチャーだった。シュートが失敗に終わると、韓国の選手たちは「生涯の過ち」とでも言っていいように大声を上げ、頭を抱えてグラウンドに倒れ込むのが定番だった。
ここでようやく、この記事は「脱線地獄」から抜け、本筋に戻ることに成功したのである。大げさに頭を抱えて倒れ込む韓国選手たちを見て、私が感じたのは「ポーズ」だった。
■日本と韓国の大きな違い
当時、日本ではサッカーはマイナーな競技のひとつであり、大きな関心を集めたはずの東京での第1回日韓定期戦も、記録を見ると入場者数はわずか1万5000人だった。6万人収容の国立競技場である。4分の1ほどの入りだった。しかも「1万5000人」は「当事者発表」の数字で、実数ではない。実際には、1万人入ったかどうかだっただろう。もちろん雨だったこともあるが…。
しかし韓国では、サッカーは当時からかなりの人気競技だった。それに加え、「日韓戦」となると特別な関心を持たれていた。もちろん歴史的な背景からである。「日本だけには、絶対に負けてはならない。完膚なきまでに叩きのめせ」という国民の期待を選手たちはひしひしと感じていたに違いない。
シュートを外すのは、その期待を裏切ったということになる。そこで選手たちは「すみません、私が悪うございました」という「ざんげ」の姿勢を示すために、大げさなジェスチャーで倒れ込むのではないか…。国民の期待が大きなプレッシャーとなり、シュートの際の力みを生んだのに違いない。
■お手本は、やはり釜本さん
私が当時の韓国代表の監督だったら、シュートを外した後に頭をかかえたり、両手で顔を覆ったり、倒れ込むのは禁止と言っただろう。平然とした表情を崩さず、次にやるべきことにすぐに切り替えろと求めたに違いない。そうすることによってシュートを放つ際の過剰な責任感や緊張感から解放され、「決定率」が上がるはずだ…。
お手本があった。釜本がそういう選手だったのだ。彼はシュートを外しても、頭を抱えたり、まして味方選手に謝るなどということは一切なかった。相手GKに防がれて、「チェ!」というような仕草は見せたかもしれないが、たいていはあのぎょろりとした目で相手GKをにらみ付け、「次は必ず入れる」という気迫を見せた。
それは彼が「ストライカー」というものの役割を完全に理解していたからに違いない。味方からパスを受けてゴールに蹴り込むという最後の仕上げの仕事をするのがストライカーの役割である。そして、その仕事を1試合に1回か2回成功させれば、チームが勝つ可能性を一挙に高めることができる―。