世界中のスタジアムで目にすることのある「英雄的ゲリラ」、革命家チェ・ゲバラの肖像。なぜ、サッカー場で「シンボル」として…
世界中のスタジアムで目にすることのある「英雄的ゲリラ」、革命家チェ・ゲバラの肖像。なぜ、サッカー場で「シンボル」として使われることになったのか? サッカーと革命の「つながり」について、ゲバラの母国アルゼンチン訪問時を踏まえ、蹴球放浪家・後藤健生が考察する。
■「神の子」と「英雄的ゲリラ」
サッカーファンなら誰でも、アルゼンチン生まれの革命家チェ・ゲバラの肖像写真「英雄的ゲリラ」をご覧になったことがあるでしょう。星の付いたベレー帽をかぶった、あの精悍な表情のゲバラです。
1960年3月にキューバのハバナ港で行われた、貨物船爆発事故による犠牲者の追悼集会に出席したゲバラ(当時はキューバ国立銀行総裁)を、写真家アルベルト・コルダが撮影した写真をもとにさまざまに加工された作品群が生まれ、それが世界各地で「革命」の機運が高まった1960年代後半以降「革命」のシンボルとして使用されました。
そして、「英雄的ゲリラ」はサッカーのサポーターの間でも一種のシンボルとなり、世界中のスタジアムで目にするようになりました。日本でも浦和レッズのサポーターが「英雄的ゲリラ」を使用していたことで有名です。
1928年にアルゼンチン・サンタフェ州ロサリオ(同国のサッカーどころの一つでリオネル・メッシの故郷でもある)で生まれたゲバラは、子どものときから重度の喘息だったため、4歳のときにはコルドバ州の州都コルドバ近郊のアルタ・グラシアに一家で引っ越して、ゲバラは高校時代までをここで過ごします。そして、ブエノスアイレス大学医学部に入って医師となるのですが、この間、友人とともにオートバイで南米大陸を放浪します。
■「キューバ革命」成功後も…
アルゼンチンは南米大陸の中では比較的裕福な国であり、とくにゲバラが生まれた1920年代には経済的に繁栄していましたし、ゲバラは比較的裕福な両親のもとに生まれました。しかし、放浪の中で南米諸国で民衆がいかに搾取されているかを知り、ゲバラは革命の道に足を踏み入れます。そして、メキシコでキューバから亡命していたフィデル・カストロ(後に同国の国家評議会議長)と知り合い、キューバ革命に成功し、政府の要職を歴任します。
しかし、ゲバラはその後カストロと袂を分かって世界各地で革命を目指し、1967年にボリビアで捕らえられえて銃殺されてしまいました。
ゲバラは清廉潔白な革命家として尊敬され、またキューバでの栄誉ある地位を捨てて再び革命を夢見て、そのために命を落としたことによって革命のシンボルとなったのです。
■なぜサッカー場で「シンボル」になったのか
では、ゲバラの肖像はなぜサッカー場でシンボルとして使用されることになったのでしょうか?
サッカーのサポーターには貧しい労働者階級が多く、そのため民衆とともに戦ったゲバラに親近感を持ったというのも正しい説明でしょう。サッカーの過激なサポーターは、ライバルチームのサポーターとだけでなく、国家権力の末端にいる警官隊とも戦うのが常でした。
いや、さらに言えば、サッカーというスポーツ自体が多くの国で反体制的な存在だったのです。
これは遠い過去の話です。
今では、サッカーというスポーツは中東産油国の王族やら旧共産主義国の新興財閥「オリガルヒ」、あるいはアメリカの投資家たちの所有物になり下がり、FIFA会長も彼らのご機嫌をとるのに汲々としているありさまです。
しかし、20世紀初めに英国生まれの新しいスポーツであるサッカーを支援してクラブのオーナーとなったのは伝統的な体制派ではなく、各国で近代産業を起こしたリベラルでメトロポリタン的志向を持つ新興企業家たちでした。各国の体制派はフットボールという新しいスポーツに否定的でした。
ドイツでも、フランスでも、ロシアでも、それは同じです。
ゲバラの肖像は、そういう遠い昔の記憶も背負ってサポーター席でひるがえっているわけです。