「一度は現役を引退した僕が、まさか社会人野球ができるとは思わなかったです」元オリックスで、現在は社会人のムラチでプレーを…
「一度は現役を引退した僕が、まさか社会人野球ができるとは思わなかったです」
元オリックスで、現在は社会人のムラチでプレーを全うした中道勝士は語る。16年のドラフトで育成5位指名を受け、プロの世界に飛び込んだ中道は、厚労省指定の難病・潰瘍性大腸炎を患い、わずか2年で退団してしまう。その後、独立リーグを経て、19年に一度目の引退。その後は焼肉店のオーナー、大学野球部のコーチを経て、24年から滋賀県でプレーするムラチに入社し、選手兼任チーフマネージャーを務め、現役復帰を果たした。今年の6月28日に引退試合を行い、ヘッドコーチに就任した。
オリックスでの2年間で学んだことや、ムラチ入社のきっかけを語ってもらった。
わずかプロ2年間でも魅入られた超一流の技
———オリックス入団後はどういった形で体調を崩してしまったのでしょうか。
中道 入団会見前に体調を崩してしまいまして、当時はノロウイルスが流行っていた時期だったので、それに近い症状も出ていました。そういう診断も受けていたのですが、なかなか改善がしなくて…。入団会見後に精密検査をやったら、潰瘍性大腸炎だったんですね。———2年間は症状に悩まされる日々でしたね。
中道 正直「なんで俺が」…という思いはありました。ドクターストップだけではなく、「やれます」といっても球団からストップもかけられたこともあります。プレーしたくてもできない。葛藤し続ける日々でした。それでも最終的には良い思いをしたなと思っています。
この病気をきっかけに、沢山の方に僕のことを知っていただき、応援や激励の声をもらいました。同じ病気の方からSNSのメッセージファンレターもいただくことも多くて、<活躍が励みになります>というメッセージもいただけて、良かったかなと思っています。
オリックスには同じ病気を患った安達了一さんもいて、大変お世話になった先輩です。自分の病気が報じられてからはXでDMをもらって、色々励ましてもらいました。その後もお世話になりました。
———思い描いていたプロ野球生活とは異なるものだったと思います。オリックスにいた2年間で、プロ野球選手のすごさを実感したり、学んだことはありますでしょうか。
中道 それはもちろんあります。一軍にいる選手はテレビで見るような方々。そういう方が調整で二軍で練習をするんですけど、別格なんですよね。
こんなすごい方が結果を残せない一軍はどんな世界なんだなとおもいましたね。プロの世界でアベレージヒッターと呼ばれる選手でも、ポンポンと本塁打性の打球を飛ばすんですよ。
———例えばどんな選手がいましたか?
中道 Tさん(T-岡田)の打撃には驚かされましたね。また、吉田正尚さんは僕が在籍していた時は腰の怪我で二軍にいる期間も多かった時でした。
打撃練習はローテーションでやるんですけど、ティー、打撃練習、守備、走塁と4組に分かれて、僕は同じ左打者の正尚さんと同じ班でした。オリックスの二軍練習場の舞洲はライトから逆風が吹いていて、打球が戻ってくるんですよ。レフトは逆に追い風です。僕はどう頑張っても、フェンス前で失速してしまい、なかなか本塁打にならないんですけど、正尚さんの場合、逆風関係なく、スタンドインするんですよね。何だこの世界!と衝撃を受けました。
———吉田選手は理論派というイメージもあります。
中道 打撃は一つだけ教えてもらいました。手取り足取りではなくて、それが今でも意識していることです。野球は3割打てば一流打者じゃないですか。みんなは3割を求めて練習しますが、これも一つの考えだと思います。自分も正尚さんにその話を聞くまではそういう考えでした。
正尚さんはこう言うんですよね。
「みんなは10打数3安打を求める。それもいいけど、俺は違う。7対3の割合で、7のアウトを自分が納得できる良いアウトを増えていけば、6打数4安打、5打数5安打に変わる可能性がある。例えば野手の正面に放った強烈な打球が強襲ヒットになれば、6打数4安打と少しずつアウトになった強い打球もヒットに変わる可能性がある」
つまり“良いアウトになる”という考えなんですよね。それを聞いてとても楽になりましたね。ヒットを打たないといけない意識だったのが、正尚さんの言葉で以前よりも楽に打席に入ることができましたし、今でも実践している考えです。
明治大ОBの助けで、ムラチグループへ

———退団した後はどんな活動をされましたか?
中道 海外で生活をしたいと思っていたんです。英会話を習っていたので少しだけ喋れたんです。オーストラリアにいくことになって、オーストラリアでは、独立リーグでプレーしながら、子どもたちの野球教室、寿司屋でバイトして、英語を覚えて、最終的に電話対応もしていました。でも何年も経って忘れてしまいました(笑)
オーストラリアに戻ったら、大阪の堺シュクライスは、地元に近い球団ということもあって、プレーしていました。
———現役引退後は焼肉店をやられていますよね
中道 店長は1年半やっていました。辞めたきっかけも持病の影響で、立てなかったのがきっかけでした。勤務時間が長く、お酒もあって、持病に影響してきました。ある日、大きく体調を崩して、両親と妹に連れられて、病院にいきました。あと一歩遅かったら、大腸全摘出になるところでした。それで店長も辞めました。
その後は奈良で個人事業主として野球教室をやりながら、秋田のノースアジア大で1年半、コーチをすることになりました。まさか秋田で生活するとは思いませんでした。
———コーチの経験はどうでしたか。
中道 子どもたちに野球を教えるのはこれまでやっていましたが、組織に入って選手を指導するのは初めてでしたので、色々と経験になりましたし、学生との関わり方も学びました。
当時の監督はプロ野球で20年以上もコーチをやられていた米村理さん。米村さんは試合展開の予測がうまくて、予言したことがすべてその通りの結果になるんです。米村さんのもとで、野球観を学ぶ事ができたと思います。
———どういう経緯で社会人野球のムラチでプレーすることになるのでしょうか?
中道 津田学園監督の佐川(竜朗)さんのおかげです。佐川さんは明治大のОBで、智弁学園の小坂監督ともとても仲が良くて、僕がいた時から練習試合をやる間柄でしたので、ずっとお世話になっていた方なんです。ノースアジア大コーチの契約が終わったので、「野球界にいたいです」と連絡したら、「ちょっと待ってろ!」といわれて、ムラチのGMである鈴木 信哉さんにご紹介をいただいて、24年1月に入社しました。
———ムラチはフルタイムで働いてから、練習をするチームですが……。
中道 結構良いシステムだと思います。野球が毎日ある日々は羨ましいと思われがちですが練習ばかりではしんどくなりますよね。仕事をフルタイムやってから野球なので、逆に野球をすることにハングリーになるんですよ。野球が上がってからも正社員で働けますし、現役の時から正社員として業務をこなしながらスキルを高めていくのは長い目で見たらいいと思います。
フルタイムをやってから、しっかりと練習をするスケジュールはもちろんしんどいです。僕は営業マンとして企画、見積もりなどをいろいろやっています。覚えることがたくさんあって大変ですが、上司にも恵まれて、充実感を持ってやらせています。
僕たち野球部と会社との一体感が出ているのは、こうしたスケジュールがあるからかなと思います。
———現役引退を決断しましたが、改めてムラチは中道さんにとってどんなチームでしたか?
中道 とても幸せな環境です。ムラチを立ち上げなかったら、そして僕が佐川さんに連絡をしていなかったら……。偶然が重ならないとなかった出会いがあり、今の環境があります。こうして野球に携わることに感謝しかありません。今の仲間に出会えたこと、一緒に野球ができること、仕事ができること、一つの勝利に向かって取り組めることに感謝しています。
中道 勝士(なかみち・かつし)
1994年4月30日生まれ。右投げ左打ち。柏原ボーイズ時代は捕手としてAA代表を経験し、藤浪晋太郎投手とチームメイトだった。智弁学園では1年春からベンチ入りし、1年夏に5番ライトでスタメン出場。その後は強打の捕手として元オリックスの青山大紀投手とバッテリーを組んで、2年夏(11年)の甲子園でベスト8、3年春(12年)にも出場した。明治大では4年間で10試合出場にとどまったが、副将として16年の大学選手権出場、明治神宮大会優勝を経験した。試合出場機会は少なかったが、打撃力を評価され、オリックスから育成5位指名を受ける。入団後に患った厚生労働省指定の難病の潰瘍性大腸炎の影響で2年目で退団。その後、オーストラリアの独立リーグを経て、19年は関西独立リーグの堺シュライクスで一度目の引退。その後は焼肉店を立ち上げたが、持病を考慮し、店長を退き、奈良県の野球教室でコーチをしていた。22年から北東北大学野球連盟のノースアジア大学でヘッドコーチを1年半務めた。コーチ退任後、24年1月に社会人野球に加盟したムラチグループに入社し、野球部の初期メンバーとして一からチームを作り上げた。現在は社業では営業マン、チームでは選手兼任チーフマネージャーとして首脳陣、後輩選手から頼られる存在として活躍した。6月に引退を決断し、ヘッドコーチに就任した。