高校野球の育成と発展に尽くした人を日本高校野球連盟と朝日新聞社が表彰する「育成功労賞」に鳥栖商を初の甲子園に導くなど佐…
高校野球の育成と発展に尽くした人を日本高校野球連盟と朝日新聞社が表彰する「育成功労賞」に鳥栖商を初の甲子園に導くなど佐賀の県立校で通算35年指導した西村秀範さん(65)が選ばれた。
西村さんは今春、再任用の鹿島から鳥栖商の講師になった。「野球を教え始めた場所へ11年ぶりに戻ったことと重なり縁を感じる」
佐賀商の選手として1977年、夏の甲子園に出場。千葉商科大を経て商業科の教諭に。87年から鳥栖商で2年間、女子バレーを担当した。野球部の監督になったのは89年の春からで、「グラウンドは草が生え、ボールが転がっていた」。
気の向かない部員は、練習に来なかった。そこから5年目で甲子園へ。第75回全国選手権佐賀大会(93年)は、2回戦で強豪の佐賀商に完封勝ちして勢いに乗り、快挙を達成した。
翌年の苦い思いが、指導の支えになった。経験者が残り佐賀大会連覇を狙ったが、決勝で佐賀商に逆転サヨナラ負け。その佐賀商は全国制覇へ駆け上がった。甲子園での樟南(鹿児島)との決勝に、母校の同級生らから「一緒に応援を」と誘われたが、断った。「『打倒・佐賀商』と必死に練習する新チームを残して行けなかった」と振り返る。
「あと1イニングを勝たせてあげられなかった。あの時の3年生に対する申し訳なさで、ここまでやれた。連覇していたら、多分、やっていない」。手にしかけていた甲子園連続出場の夢は、息子の昂樹さん(36)がかなえてくれた。第88回大会(2006年)で、父と同じ背番号「8」をつけ、佐賀商の連続出場に貢献した。
その後、鹿島実(現・鹿島)と鳥栖商を行き来して指導したが、甲子園は遠かった。「年を重ね、親心がわかるようになったからでしょうか」。采配に情が入ることもあった。
鳥栖商に戻り、改めて気付いたことがある。初出場の記念碑に、当時の部員らの名前を刻まなかった。「先輩の苦労を思い、その時の関係者だけ名前を載せるのはどうかと思って」。今、当時の選手の娘がマネジャーだ。「父の名前を見れば、励みになるかもしれないのに……」。厳しさに隠れてきた優しさがにじんだ。(森田博志)