長嶋清幸氏、3球団目のロッテでは1、2軍を行ったり来たり NPB通算1091安打をマークした長嶋清幸氏は1992年オフに中日からロッテにトレード移籍した。背番号は「31」でプロ14年目にして初のパ・リーグ、初の関東生活になったが、力を出し切…
長嶋清幸氏、3球団目のロッテでは1、2軍を行ったり来たり
NPB通算1091安打をマークした長嶋清幸氏は1992年オフに中日からロッテにトレード移籍した。背番号は「31」でプロ14年目にして初のパ・リーグ、初の関東生活になったが、力を出し切れなかった。1軍と2軍を行ったり来たりで40試合の出場で68打数11安打の打率.162、1本塁打、5打点。そんなシーズン途中に「お前はパ・リーグが似合わないよ」と阪神の編成担当者から声がかかった。幼い頃から大ファンだったタイガースへの道がそこから開けた。
長嶋氏は宇野勝内野手とともに、今野隆裕投手、横田真之外野手との2対2の交換トレードで中日からロッテに移籍した。パ・リーグとセ・リーグの違いを感じたという。「パの投手は力のあるヤツは力勝負、力のないものは緩急でかわす。これは徹底しているなと思ったね。セは力のあるピッチャーでも、ここでかわすの? みたいな感じだから。何かそれで一抹の不安が出ちゃったね。ここで、もしかしたらフォークじゃないかと思ったら、ドーンと来るからね」。
こればかりは慣れていくしかなかったが、ロッテでは代打中心で出番も少なく、場数を踏めずに苦しんだ。1993年5月20日のオリックス戦(千葉マリン)で佐藤義則投手から1号アーチを放ったが、この時は「9番・右翼」での出場で、ようやく3試合目のスタメン起用でもあった。そして、その一発が長嶋氏にとってロッテ時代に記録した唯一の本塁打にもなった。
「佐藤さんからは(広島時代の1984年の)日本シリーズ(第3戦)で(満塁)ホームランを打っていたし、『お前、ええかげんにせーよ』って言われたけどね。佐藤さんの真っすぐは、日本シリーズの、あの凄く速かった時に比べたら、って感じだったけど、俺がロッテで打ったホームランはそれだけだもんね。そういうのも何かつながっているのかな。それも不思議だよね、ホントに」と話したが、当時はその後、1軍と2軍を行ったり来たりの不本意な日々が続いた。
「獲ってください」…憧れの阪神に金銭トレードで移籍
「あの時のロッテは八木沢(荘六)さんが監督だったけど、申し訳ないけど、ちょっと……」と表情を曇らせた。「悪いけどロッテでは野球をするよりも道を覚えることで精いっぱいでした。(2軍の)浦和と(1軍の)千葉から、都内をどうやって抜けるのかとかね。あの頃はナビがない時代なんで、地図を横に広げて……。首都高で通行止めになった時なんか、どうしたらいいんかなって思ったね」。そういうことも含めて、しっくりいかないことばかりだったようだ。
そんなときに阪神から声がかかった。日本ハム2軍の多摩川河川敷グラウンドでのことだったという。「よく見に来てくれていた阪神編成の西山(和良)さんに『マメ(長嶋氏の愛称)、お前にパ・リーグは似合わないよ、ウチに来るか』と言われた。『お願いします。阪神で獲ってください』と言ったら『わかった、考えてみるわ』って。そしたら、すぐだったね」。1993年オフ、金銭トレードでの阪神移籍が正式に決まった。
子どもの頃から筋金入りのタイガースファン。「タテジマのユニホームがかっこいいなと思った」と言い、阪神生え抜きスター選手の藤田平内野手に憧れた。1979年オフに、私立静岡県自動車工(現・静岡北)からプロ入りする際も、当初は阪神に行くことになっていたが、阪神側の事情で連絡が途絶え、急転、ドラフト外で広島入団を決めた経緯もあった。その阪神と、プロ生活14年を経て再び、縁ができた。
「ロッテは俺をとにかく出すだけで、本当はクビでもいいと思っていたんじゃないかな。阪神からそういう話がなければ……」と長嶋氏は言うが、それはそれでまた気合が入ったことだろう。広島時代の1983年に日本プロ野球初の背番号「0」をつけた稀代の勝負師は、1990年までの広島と中日2年目の1992年シーズンに続き、阪神でも「0」を背負うことになった。「セ・リーグに戻れるのもうれしかったね」。また心機一転。虎戦士としての新たな闘いがスタートした。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)